販売の科学

私は、本棚から唐津一氏の「販売の科学」売りながら調べ調べながら売る・・という本を取り出してきた。だいぶ前に読んだ本である。販売は、企業経営の中で行われる種々の機能の中でも、最も機密を要求される分野である。唐津氏はこう言う。

「いろいろな成功物語とか、それに類する実例の紹介は、読み物としては面白いが、それが自分の場合にも同じようにうまくいくという一般的な保証はないのである。それに、ほんとうに重要な点は、これらの物語には出ていないのが普通である。われわれにとっては、そのような結果についての解説よりも、いかにしてこのような結論に到達できたかという手段についての基本的な考え方の方が、役に立つであろう。」では、その文脈を見ていこう。


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十、外部調査機関の利用②

 

 

 タイミングの点については、やりかたによっては、もちろんかなりのところまで改善できるが、これも完全を期するには、結局その機関なり人なりを、専属のような形にしなければ解決しないことが多く、それならば、自社に専門家を養成することと変わりないことになるであろう。

 

 だが、だからといって、これらの調査機関を利用することが、ぜんぜん不得策であるというのではもちろんない。というのは、先にあげたように、これらの機関に属する専門家、蓄積資料、よく訓練された調査員などは、やはり貴重な存在であって、その目的により、これらを利用することは大きな利益をもたらすし、またテーマによっては、これらに頼らなければ、実際上調査を行なうことが困難なものもある。

 

 しかし、ここでとくに強調しようとしていることは、これまで調査を行なう場合に、時々外部の機関に依頼しておけば、何かが出てくるであろうという態度を見受けるが、これは非常に大きな誤りであって、調査はあくまでも、自分で立案することである。そして、外部に依託することが最良であると認められたときに、はじめて相談をもちかけるということでなければ、とくに販売調査においては、経費の乱費に近い結果にしかならないであろうということである。この場合、外部の専門家をコンサルタントとして利用することが、有利であることももちろんであるが、最終的には、自己の力に依存するということを忘れてはならない。というのは、販売調査は他の分野における場合と異なり、この方面について真に有用な研究の発表が、ほとんどないからである。

 

 すなわち、販売における最も有効な手段は、どの会社でも発表したがらないし、またおそらくその大部分は、少なくとも現在のような社会の経済構造がつづく限り、日の目をみないままになるであろう。このような状態においても、しかし最良の手段を発見しなければならないのが、調査担当者の責任である。この現実をよくかみしめた上で、販売調査についての研究をされることをお願いしたい。

 


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十、外部調査機関の利用①

 

 

 われわれが、市場に関する情報を求めるための源泉として利用しうるものには、みずから手を下して行なう調査の他に、官公庁や業界団体、学会関係などから発表される種々の統計資料がある。これは、それだけで、すぐ利用できるものは少ないが、他の方面から得られたデータの解析、またはこれから行なう調査の計画のためには、非常に有用な場合がある。たとえば、この分析によって、ある種の商品の地区別の売れ行きが、その地区の収入別人口構成のデータとつき合わせてみて、かなり高度の相関があることが発見されるといったことは、少なくない。そして、この種の解析は誰しも考えることであって、なかには、これだけをもととして、需要推定などを行なっているむきもあるが、この場合、それらの数字の間を結びつける具体的な事実をよく調べておかないと、いわゆる、「風が吹けば桶屋がもうかる」といった式の推測を下すことがあるから、十分に注意する必要がある。すなわち、これらのデータは、数字としては小数点以下何位までも出ていても、どのくらいの信頼度がこれにあるか、判然としないものがほとんどであるし、また、そこに与えられている、いろいろな分類の定義や、その調査方法についても、われわれの考えた通りに受け取ってよいかどうかも、怪しいことがあるからである。

 

 このようなものを利用するより、さらに積極的にわれわれの依頼によって、希望する調査を行なってくれる民間の調査機関から得られる情報がある。これらはいずれも調査に関する専門家を有しているので、相談にも乗ってもらえるということだけではなく、調査に必要な基礎資料を常に準備しているという点、また自社の名を出さないで調査が行なえるということの有利さはあるが、その反面、これまた逆に第三者であるということのための、種々の不利な条件をそなえていると考えてよいであろう。そしてその中でも経費の問題は一応別として、秘密の維持とタイミングの点で、すべてをこれらに頼ることは必ずしも得策ではない。

 

 もちろん秘密の維持は、これらの調査機関では最重要のこととしているから、これが洩れるということはまずないが、販売上の問題は、会社内でも最高の機密であり、これに社外の人を入れることは、いわば家庭内の問題を第三者に相談する場合のように、どうもしっくりいかないことがある。また相談を受けるほうでも、すべてを知りつくすことが、最もよい計画を組みうるための前提であるということだが、これは案外むずかしい問題である。

 

 


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九、市場調査は公正な競争を基本原理にせよ②

 

 

 だがしかし、公正という言葉の内容は、もちろん時代の移り変わりとともに変わってくる。かつては公正と思われていたことが、エネルギー不足とか環境破壊とかいったかけ声ひとつで、企業の社会的責任が追及されることになりかねないのである。先に法則には寿命があるといったが、まさにこれはそのひとつである。

 

 したがって、販売のための調査を計画するときも、またそれを実行するときも、フェアプレーとは何か、ということをよく考えておくべきである。

 

 かなり以前だが、ある家庭雑誌が、同じ品物でありながら、店によって価格がまちまちだということを調べて問題にしたことがある。ところがその後再販価格はけしからんということで、むしろ値段がまちまちであるほうが、本来の姿だということになってきた。いま出ている雑誌は全国一定の価格で売られている。しかし、販売にかかった経費ということからみると、東京のように出版社から近い地区のほうが、鹿児島や北海道のような遠隔の地よりも、コストは安くなっているはずである。だから、全国一律の定価ということは、東京の読者は、見ず知らずの遠くの人たちのコストを負担させられていることになり、不公平だということにもなるだろう。

 

 これに対し、いや運賃などは知られているのだから、目くじらをたてなさんなという見方もできる。もっと業界の事情にくわしい人なら、雑誌のコストの中には、返品のロスも入っているはずだ。そんなものまで負担するのはゴメンだ、という意見を出すかも知れない。

 

 だから、何が公平かの基準は、時代により、また商品の種類により、大幅に変わるのがむしろ普通である。ムードあふれるキレイなガラスのビンに入っている香水は、ビンの内容積に多少のバラつきは避けられない。だから、一定量の香水を入れると、香水の液面の高さが不ぞろいになってしまう。そこでやむなく注射器で量を増減して、ビンの口もとスレスレにそろえて出すといったこともやっていた。だから中味の量を厳密にはかると、数千円もする香水でありながら、ビンによって違いが出てくる。

 

 それではというので、量を一定にすると、液面の高さがまちまちになるので、お客さんからクレームが必ずついてくる。

 

 この場合、量をそろえるか、液面の高さをそろえるか、どちらにするほうが公平かは理屈ではないのであって、商慣習としてきまるものである。一般に販売の世界では、やり直しがきかない。工場での生産なら、不良品は事前に調べてスクラップにすれば、事故を未然に予防できる。やり直しのきかない販売の分野では、公平とは何かをよく考えて、ものごとを判断することが大切である。

 


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九、市場調査は公正な競争を基本原理にせよ①

 

 

 ここでいう公正とはフェアプレーのことである。

 

 自由主義経済のもとでは、どのような品物を生産し、またどうやってそれを販売するかは公共の秩序を乱さない限り、一応自由なはずである。この自由競争の原理が、人間の創造性を刺激し、より便利でより安く、誰もが期待する商品を作り出すことの原動力となったことは、歴史的にみても明らかである。過去において、文明の発達は、自由な精神が社会の支柱となった時代に行なわれた。たとえば、近代文明の引金となったルネッサンスは、魔女裁判の行なわれた中世の暗黒時代のあとに来たといったことである。

 

 だがしかし、自由な競争にはおのずからその秩序が必要である。イギリスをその起点として発展した産業革命は、一方において、王侯貴族でも手に入れることのできなかった優れた商品を、大衆のものとすることに成功したが、その裏では、企業という怪物の、他をかえりみない自由競争から来る弊害を、社会にもたらした。競争者を力によってねじふせようとする努力から、かえって真の意味での自由競争の場を失わせるという結果を招いたのである。

 

 アメリカにおける独禁法の厳しさは有名であるが、その基本的精神は、フェアプレーである。つまり同じ土俵の上で競争させようということである。だから、巨大会社が生まれると、その手をしばって、とにかくお互いが勝負になりうるように制限をつけるのである。

 

 このような考えかたは、自由競争の原理が最大限に生かされることが社会の秩序を維持し、その進歩をうながすために最も基本的である、ということから生まれたもので、事実それは成功した。

 

 最近では、これはさらに消費者とか社会とのかかわりあいという立場から、あらためて認識されつつある。どのような企業でも、それが所属する社会なり国家の将来への繁栄ということを考えるなら、やたらと勝手気ままにふるまうことは許されない。お互いにゆずり合い、公正というルールのもとで、ひざをよせ合って生存するように努力することが、義務でありまた責任である。

 

 七〇年代の日本の高度成長と関連して、エコノミックアニマルという言葉が流行し、日本の企業が、まるで悪玉の代表のように報道された。その実態とニュースとは必ずしも一致しないものもあったが、このような悪評が伝えられた原因は、何といっても、フェアプレーという原理からはずれた過当競争によるものだったことは、間違いあるまい。

 


 

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八、結果を正しく評価する②

 

 

 とはいえ、このような場合でも、販売のための調査はやはり非常に重要である。というのは、このように市況の悪化したときでも、事実によって最良であると確認された手を打っているのであるから、われわれとしては、それ以上のことはできないし、またもしこの場合、経験とかカンだけに頼るとしたら、最良でない手を打つことになるかも知れないから、さらに悪い結果をもたらすという危険がある。このように損失を、最小限に食いとめうるという意味で、調査は十分にペイされうるし、またその程度も数字で求めることが可能である。そして、このような事態のもとで、実績を好転させるためには、現在の商品を売るということ自体が問題なのであるから、まったく別の立場から、会社の方針を考えて変更するより方法はないであろう。

 

 だが、実際には、このような極端な結果になることはむしろ少なく、現実は常に二つの極端の間のどこかに存在する。そして計画者は、その結果がよくても悪くても、一般にこれを過大に、または過小に評価しやすい。したがって、どんなに売上げとかその他の面で好転しても、これを自社だけの数字をもととして判断することはやめて、たとえば、他社との市場占有の比率とか、クレームの質や件数の変化などを総合して判定するとともに、その得た結果が、調査だけの問題か、他社の手の拙さにあるか、市況の変化によるものか、またそれ以外の原因によるものかなどを、よく分析しておくことが望ましい。

 

 いま広告方法の選定を適切にやったために、自社の売上げが非常に増加したとしても、広告には自社製品についての認識を深め、指名を増す効果ももちろんあるが、それとともに一般の購買意欲を高めて、同種商品の売れ行きを他社を含めて増すという影響も、実際には多かれ少なかれあるものである。したがって他社の同種製品の中に、自社よりもさらに魅力的なものがあれば、そのほうの売れ行きも、それに引きずられて増大するため、自社の売れ行きとの比率については、改善されるとは限らない。したがってこのような場合には、前に述べたこととは別の立場から、評価の判断を下さなければならないことになる。しかしこの広告も、その目的に、将来への布石としてという意味もあるとすれば、また少し違った結論を得ることになるであろう。このように、計画に対する評価は、現われた現象が同一であっても、その立場によって、また時期によって異なってくるものである。しかしいずれの場合にしても、この評価の基準は、それぞれの計画の目的から与えられるべきものである。

 

 工場や研究室における結果の成否は、歩留りとか、コストなどの形ではじめから明らかなことが多いが、販売の場合には、それが立場によって、どのようにでも受け取れることは珍しくない。商売に「かけひき」はつきものだが、これは競争相手からみればけしからんということになるし、第三者である評論家からみれば、ひとつの教訓として受け取るだけかも知れない。一般に、販売に科学的手法をもち込むに当って、最も大きな困難は、それにルールがないことである。そして、このルールは調査の評価の場合、調査の目的から与えられるが、その基本となるべきものは、最終的には会社の経営方針から導かれるべき性質のものでる。そして、これをもととして結果を正しく判断することが、また次の知恵の問題のために、重要な源泉となる。

 

 


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八、結果を正しく評価する①

 

 

 販売のための調査を実施する際には、誰しもその売上げとか、受注の量、利益率などが、その結論を市場に対して適用することによって、これまでより増大することを期待して行なっているに違いない。しかしながら、そのような期待が常に、そして必ず実現するかどうかは、計画のたてかただけによってきまるものではなく、実は、別の要素によって大きく左右されることが、少なくないことに注意しておかなければならない。

 

 すなわち、かなりうまく計画された調査計画とその結論を忠実に実行しながら、結果的にみて、必ずしも、その目的である売上げの数字には大した影響がなかったということも、ないとはいえない。このような場合には、これまでにもたびたび述べたように、調査が少なくとも企業活動の一環として行なわれる以上、なんらかの形で、必ずペイしなければ、意味がないという主張からみて、そのような調査はむしろ実施しないほうがよかったのではないか、という非難をこうむることになるかも知れない。

 

 もちろん、この場合、それが調査における標本数の不足とか、層別の拙さなどに、その原因を求めるべきであると判断されるようなこともありうるが、これらは計画のときに十分の検討が行なわれていれば、かなり安全なはずであり、またその結果の確からしさについても、期待損失という考えかたで、合理的に処理することが可能である。

 

 しかし、ここで述べようとしていることは、まず調査によって与えられるものは、われわれがそのときに思いつきえたものの範囲内のみについての最良の解答だけであって、計画者のまったく考えたこともない未知のものをも含めての、最もよい答を与えているものではないということなのである。だから、考えついたいろいろな手、もしくは因子の組合わせの中に、すばらしいものが存在しないときには、得られた結論を適用することによって、大きな成果が得られるかどうかは、断言することはできない。このことは、行動の選択のための調査を実施する場合についてももちろんであるが、知るための調査についても同じことがいえるであろう。

 

 さらにこの場合、このようにして決定して行動に移したとき、はたしてどのくらいの販売実績が現実に得られるかは、そのときの市況、もしくは需要家の要求度などによってきまるものなのであって、その結論として起こした行動そのものに付随した、固有のものとてきまっているものではない。つまり販売実績とは、その行動に対する市場のひとつの反応とも考えられるものであって、その反応は市況によってきまるものなのである。したがって、たとえば、市況が悪化したような場合には、どんなにそのときに最良と判断された手を打ってみても、販売実績が思わしいものとはならないのが当然であろう。

 


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七、情報はできるかぎりナマのものを残す②

 

 

 つまり、このような情報が最大限に利用されないのは、欲しい情報を、任意にとり出すための手間だけの問題からである。それには、いざというとき、すぐたぐりよせられる何らかのヒモをつけておけばよい。そして、これがうまくできさえすれば、欲しいときにいつでもナマはもちろん集計値もすぐ得られるから、これまでいろいろな会社でつくっている月報とか週報のようなものも、必ずしも必要がなくなるのである。

 

 よく考えてみると、これまで出していた月報などの統計は、全般的な見通しをつけるためのデータが、任意のときに得ることが困難なために、大体要ると思われるデータを月ぎめにして、まとめていたにすぎない。

 

 しかしながら、いつも同じ集計法でよいとは限らない。某地区で自社または他社が大キャンペーンをしたらどうなったか?値引きの効果は?某地方の大火の影響は?など、販売政策決定のために、現在最も有用であるという集計方法は、常に違っているはずである。 この場合、従来は大事件であれば別だが、日常のちょっとしたことぐらいのことは、その手間をおしんで、データをつくることをしなかった。しかしながら、情報にすぐとり出せるヒモさえついていれば、これは実に容易である。近頃ではパソコンがやたらに普及したために、愛用者カードのようなものまで、それで集計している会社があるが、単なる一時の集計のためだけだったら、こんなにもったいない話はない。重要なのはパソコンに何を入れておくかである。

 

 情報にヒモをつけることに成功すれば、情報管理の第二歩はできたようなものである。いいおくれたが、第一歩はもちろん、何についてとるかをきめることである。そして、それらのアレンジには、当然その道のエキスパートを専任にする必要がある。これは、とても片手間ではできない。ちょっと考えると、この仕事は実に大変な、手間がかかるようにもみえる。事実、前にも述べたように、末端のセールスマンが日々得たニュースから、社長がなんとなく雑談中に思いついたことまで、会社のすべての耳と目から得られた情報を集中するとなると、大変である。しかしそれも、幸いにしてファイリングシステムの進歩によって、やる気があれば、大した手間をかけないで行なえるようになっている。それよりも実際には、その情報を集めるための教育のほうが、大変であるということをつけ加えておこう。

 


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七、情報はできるかぎりナマのものを残す①

 

 

 先日海外旅行して帰ったある人から聞いた話。ドイツの世界的に有名なSという会社では、その会社を再度訪れると、前に案内してくれた人が、今度も必ず出てくる。そして、日本からはるばるまた来てくれたというので、大いに歓待してくれて、実に感激したというのである。

 

 この手はしかしそれほど珍しいものではない。どこの会社でも、社員の名前を暗記するのが得意な幹部が必ずいるもので、新入社員など、その手で親しそうにやられると、とたんにこの人なら水火も辞せずという気に、ついふらふらとなる。だがしかし、Sほどの大会社となれば、来訪者も日に数百人を下らないし、お客が来てから、いちいち名前を調べていたのでは、とても間尺に合わないはずだが、どうしているのだろうという話であった。

 

 しかしこの手は、実は日本でもいくつかの会社でやっていたのである。

 

 この社では来訪者があると、このカードに住所、姓名や用件、日時を記入する。それだけなら当然だが、その他に再び来訪したとき劇的な効果をねらうに必要な、次のようなファクターを記入する。すなわち、来訪したときの乗物、こちらから話相手をした社員の名前、泊った宿屋とその部屋、料理の好み、接待に出た芸者の名前、マージャンなどをしたとすれば、そのときの点数、もたせたおみやげなどの条件をすべて記入する。カードに記入してこれをパソコンのフロッピーに入れておく。すると数分でこのデータが出てくる。そこで大急ぎで、このデータを読んでいく。こうすれば相手の受ける印象、演出効果は実に一〇〇パーセントとなるわけだ。

 

 これはひとつの例であるが、いまあげた話には、実は重大な原理が含まれているのである。一般に、われわれがこのような情報を保存するとき、それに含まれる情報の量は、できるだけナマのまま保存するほどよいのである。たとえばいまの場合、せっかくこのようなデータをとっても、これを集計して、何日は何人来て、接待に使った費用が諦めていくら、などということにしてしまえば、来訪者数の見当をつけるには便利だが、他の情報はすべて失われてしまう。ナマのまま保存してあれば、少なくともカードに記載してあるデータは、どのような面からでも利用できる。だが一般には、このようなことはしないで集計してしまい、貴重な個々のデータは、単なる記録用紙として用が済めば捨てられる。これは実にもったいない話である。といっても、現実にはそれを保存しておいても、分類集計などに手間がかかりすぎるから、処分するのである。

 


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六、パネル調査でタイミングよく売れ行きを知る法②

 

 

 それにはまず、立ち売りをやっているいくつかの代表的な個所を選定する。ここでいう代表とは、全体のその日の売れ行きの推定をするのに、ちょうど都合のよい場所という意味で、最もよく売れる場所ということではもちろんない。そして新聞が出ると、ただちにそれぞれの場所で売らせ、売りながら、十分または十五分ごとに電話でその売れ行きを本社に通知される。その間、もちろん輪転機は回っている。このようにして集められたデータに、その日の天候や、記事の内容などによって、いろいろな係数を加えて、その日の売れ行きを推定する。そしてこれでよいとなったら輪転機のスイッチを切る。

 

 このようなやりかたをすれば、まさに販売実験をやりながら得た情報だから、その再現性は最もよい。ところで、レコードでは、そのレコードの売れ行きの勝負がつくのは何ヵ月ですか、ということになったのだが、一日当りの生産量と比較すると、新聞のときより、もっと楽に生産量のコントロールが可能なくらいである。そこで全国に売れ行きを推定するための代表的な店でパネルをつくり、それによって、レコード生産量を管理することにした。このようなやりかたは他にもヒントがある。台風シーズンになると、南方洋上に定点観測船を出す。これと同じである。日本に来る台風がたどる経路は大体わかっているので、タッタ一隻船を出しただけで、ずいぶん台風のことがわかるのである。

 

 さて、ここであげた例は、まさにファクトコントロールを最大限に利用したものであって、うまくいくか否かは、タイミングだけの問題である。そして、これはレコードと新聞の話だが、実は他人事ではない。たびたび述べたように情報は、とった瞬間から腐敗がはじまると考えたほうがよい。多少ラフなデータでも、新鮮であれば、精密ではあるが古臭いデータよりも、よほど有用である。この点でも、販売のための調査は、従来行なわれている経済動態調査や世論調査などとは、同じ調査という名でも、まったく性格の異なるものである。

 

 よく市場調査と称しながら、データをとって集計するのに、半月も、ひどいのは一ヵ月以上もかかっているのを見受ける。もちろん調査内容にもよるのかも知れないが、あれで一体役に立つのかと、他人事ながら、いささか心配になることがある。先に計画のコツでも述べたように、計画したときに、答とその行動の選択まできめておけば、それほど手間をかけなくても、一般には十分すぎるデータが得られる。

 

 このレコードの場合、予測するといっても、せいぜい上位一桁か二桁の精度で十分である。というのは、レコードはどうせロット生産で、最小限の経済生産単位があるから、それ以下の桁数まで推測しても、ほとんど意味がない。市場へのアクションでは、タイミングが合わなければ問題にならない。野球の空振りと同じである。このことは、誰でも常識的には考えるであろうが、ここで空振りの例をひいて、強調しておきたい。

 

 実は情報の管理のねらいも、そこにひとつの大きな目標があるわけである。

 


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六、パネル調査でタイミングよく売れ行きを知る法①

 

 

 少し以前のことだが、あるレコード会社を訪問したときの話である。その会社へは最初品質管理の問題、つまり製造のことで行ったのだが、やがて話は販売のことになってきた。するとその会社のかたが、異口同音にいわれることには、レコードというものは、水商売です、とおっしゃるのである。で、水商売とはどういう意味かとうかがうと、レコードはヒット盤が出て売れると物凄く儲かる。それは当然で、ネットの原価は売り値にくらべると、実に安い。しかしもし売れないと、あれは全部返品で工場へ戻ってくるから、えらいことになる。潰して再生することもできるが、まずまったくロスと思ったほうがよい。実際工場へあとで行ってみたが、返品レコードが山をきずいている。そしてどのレコードが当たるか、いつ売れ出すか、まったく予断を許さないので、水商売だというわけである。

 

 しかし考えてみると、この話は簡単である。要するに、売れないレコードを作るから損をするのである。そんなものは作らなければよろしい。そういったら、いや売れると思うから作るのだ。初めから売れないとわかっていれば作らない。これでは話は堂々めぐりする。しかしというわけで、問題は結局、新しいレコードができたとき、そのレコードを何枚作るかを、どうやってきめているのか、そのきめかたで勝負がきまるということになった。

 

 それを質問すると、営業関係には、その道の大家がいる。この人々がレコードを試聴し、各人が昔売ったいろいろなこれまでの経験や、そのころの流行などを考えに入れて、これは何枚売れるはずだ、という意見を出し合ってきめるというのである。それでは水商売になるのは当り前である。客観的根拠はひとつもない。もちろんこの場合、前に述べた試作品のデザインに投票させ、そのうちから、実績をもととして各人にウエートをつけてきめるやりかたも考えられるが、もっとよい方法として、次のような例を紹介したのである。

 

 アメリカにおいては新聞は、ご承知の通りほとんど立ち売りで、家庭に月ぎめで配達するというのはごく少ない。となると新聞社にとって、きょう何部印刷すればよいかということは、大問題である。新聞の勝負は、せいぜい四、五時間でついてしまう。しかも売れ行きは毎日違う。雨の日と晴天では違うし、もちろん記事の内容によって、数量は非常に違うであろう。だから、せっかく売れるのに、安全をみて少な目に発行すれば、売れ残ることはないが、みすみすお客を逃がすことになる。また刷りすぎれば、もちろん残って、アメリカだからベン当箱の包み紙にもならない。この数時間でつく勝負をどのようにしてきめているか?といえば、そのむずかしさはレコードどころではないはずだが、その内幕を話すと、実に簡単にやっているのである。

 


五、社内の情報の流れを管理する人が大切だ②

 

 

 また先に述べたような、機密の保持の問題も重要である。

 

 このような意味から、どのような企業においても、社内の情報の流れを、計画し管理するための専門の部門、または責任者が必要なものと私は考えている。そして、情報がこの人々によって、会社の方針にそって整理され、各組織に流されることが判断のためにも知恵のためにも、重要なことであり、企業全体が最も効率よく活動しうるための基盤となるものである。

 

 このようにいえば、誰でもそれは当り前であるということで、反対する読者はないであろう。しかし現実には、どの企業でも、他の人が聞けば実に貴重なはずの情報が、特定の一人の記憶としてとどまるだけで、どこかに埋もれてしまった例は、おそらく無数にあるに違いない。

 

 どの会社でも、技術屋とか事務屋とかいう肩書のグループがあって、お互いに相手のもっている知識は、むしろ知らないのが当たり前であるという顔をしている。そして、立場が違えば、情報についての評価判断は違うであろうが、お互いに真に重要なニュースを相手に伝えているかどうかは、怪しいものなのである。

 

 このような情報交換の一番簡単な方法として、たとえば、次のようなことをしている会社がある。それは毎日の昼食を、課長以上の管理者全員(人数にもよるが、多くて二〇人以下を一グループとしたほうがよい)の会食とするのである。これは、よほどの用件のない限り毎日出席させる。蛇足を加えるならば、食事はむろん会社側の負担として、同じ献立としたほうがよい。

 

 すると、少なくとも昼休みの一時間は毎日顔が合うわけであって、顔を合わせれば、必ず雑談が出る。しかも食後であるから、お互いに気楽に話ができるということで、知らず知らずのうちに、実に貴重な情報交換がなされるのである。そこでは会議などでは決して出ないような話が必ず出るから不思議なものである。そのためには、必ず毎日やるがよい。一週間とか一ヵ月ごとの会食会などというものは、顔合わせだけで、あまり役に立たない。

 

 ある会社では、この方法をとってから、意思の疎通が実にスムースとなり、従来最もむずかしかった人事のような問題までが、実にスラスラ片づくようになった。

 

 このようなやりかたは、チームワークまたは人間関係のための一手段ではないか、といわれるかたがあるかも知れない。その通りである。しかしそれは、実は情報の流れが、その基盤になっているということから、同じものだということである。 

 

 しかし私は、それを昼食会のような文学的方法によるよりも、もっと計画的に行なったほうがさらに効果がよく、手落ちがないだろうということを主張しているのである。

 

 会社という巨大な組織体において、その生命を最終的に支えているものは、末端の販売面を受けもつ第一線の人々である。すなわち、どんな大会社であろうと、直接その需要家に接し、そして物を売って歩いている人々の毎日の販売活動によって、企業は生存を保っているのである。そして、その第一線で争っている相手も、やはり競争会社の末端の一販売員なのである。こちらの押す力と、相手の押し返す力とのバランスにおいて、ひとつひとつと品物が売れるのである。そして、自社が作った製品のデザインとか品質、広告、または取引条件などは、これら第一線の戦士たちが、相手と競り合うための実は単なる小道具的な意味しかもたない。

 

 したがって、会社の全勢力、あらゆる頭脳は、この一人対一人の力関係に集中して発揮されなければならない。これを可能にするのが企業組織であり、この組織を動かすのが情報の伝達である。

 


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五、社内の情報の流れを管理する人が大切だ①

 

 

 私どもがいろいろな会社へ行って、販売上の問題とか、その他組織を動かす上の問題について担当者の方々と話をしていると、「それは実によい話だから、ぜひ社長に直接話してくれ」といった注文をつけられることがよくある。それがまったく新奇なことなら別であるが、なかには日頃考えていたことを、社外の第三者をうまく使って説得してやろうというねらいで、このような注文をつける場合も珍しくない。そしてまた、まずいことに、社内からの意見だと採りあげないが、第三者からいわれると、やる気になるという管理者が案外多いのである。

 

 これはしかし、考えてみるとおかしな話である。日頃顔をつき合わせていて、気心も何もわかっている人からの情報を信用しないで、同じことでも、他人からいわれると受け入れるというのは、どう考えても、どこかが間違っていることに違いない。

 

 その原因として考えられる一番大きなものは、これまでの報告や意見、その他の情報を、社内に伝達する場合のやりかたに、とかく客観性が欠けていて、時にはそれをある政治的な目的によって手加減するといったことが、意識的にせよ、行なわれていたからであろう。だから、それが理路整然としたものであっても、そのつじつまがうまく合っているほど、かえって、そのことのために反発を感じたり、だまされるのではないかと、なんとなく反対するということになる。なかにはオレは偉いんだという変なみえから、何かケチをつけたがるという最低の幹部もいる。そして、アカの他人の話だと、それだけに率直で、比較的客観的だろうと考えるわけである。

 

 しかし、このような空気はきわめて危険である。身内の者を信用できないで、何を信じようとしているのであろうか。ここにわが国企業の情報管理の拙さによるマイナスの面の一端を、あからさまにみることができるわけである。

 

 先にも述べたように、あらゆるものの進歩は、これまでに得た情報を、いかに最大限に利用するか、また利用した結果をさらに新しい着想の源として、さらに一歩進むというフィードバックによってもたらされる。そしてその進歩の速度は、このフィードバックの回転の速さによってきまるものなのである。

 

 ところで一方において、われわれは、販売や製造の実働部隊からもたらされる情報をはじめとして、日々発行される新聞、テレビニュース、雑誌による情報、外来者の話など、きわめて多種多様な情報に日々接している。そしてその中にはきわめて貴重なものも、クズのようなものもあるであろう。そしてまた、この価値の判定も受け取る相手によって、まったく異なるであろう。しかし情報の価値は、やはり一応は聞いてみなければわからないものである。このような意味で、日々入手しうる情報を社内のしかるべき多くの人々に、できるだけ早く伝達することが、金にも代えがたい重大な価値を生むゆえんなのである。

 


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四、お客の利益になり、データ収集ができる法

 

 

 以前に蛍光灯を大量に製造しているある会社が、ある時期に、販売促進のための大売出しとして、使用者に懸賞をつけたことがある。その方法は、蛍光灯を買うと、その箱の中に抽選番号の入ったラッキーカードの葉書があり、これに使用条件をいろいろ書いて送る。そして抽選の上で、当選者全員には洩れなく蛍光灯の新品を一本と、さらに一等にはテレビとか電気洗濯機をくれるというわけである。

 

 この内容をみただけでは、普通に行なわれる販売促進のためのクジと差はなく、これを利用して使用条件を調べたくらいにしかみられないのだが、実にこれには、非常に巧妙な、寿命調査(ライフテスト)が隠されていたのである。

 

 この調査のねらいは、質問項目として使用条件、天井灯かスタンドか、または農村、都市、電圧の高低などをショートアンサー式で書かせ、これによって、返送されたカードを層別して、ランダム抽出を行ない、これを消費者パネルとする。そして必要があれば、その中から有意抽出も行ない、このようにして選定した人々をクジの当選者とし、当選者つまりパネル全員に対し、蛍光灯の引替券を発送する。この引替券では、先に買求めた蛍光灯が不良になったならば、その不良品にそえて、電気店に持参すれば、新品一本と取り替えることになっている。そして、このようにして小売店に戻った不良品は、全部工場に回収される。このようにすれば、前のアンケートで使用条件が全部わかっていて、しかも、どのような原因で、蛍光灯の寿命がつきたかも現物によってわかるから、最も信頼度高く、消費者での寿命推定と、その原因を知ることができるというわけである。

 

 そして、当選者を選ぶ場合、電圧の高低別とか使用時間、地域などによって、あらかじめ層別し、その中からランダム抽出をして当選させておけば、使用条件によって寿命やその他の事故に、どのような差が出るかも、たちどころにわかることになる。

 

 この調査は、工場で行なった寿命試験では十分自信があるのに、出荷すると案外なところからクレームがつく。そして、蛍光灯は使用条件によって、非常に実用寿命が変わってくるのに、それについてのデータがどこにもないということから、ちょうど販売部門が計画した売出しに便乗して行なったものである。その結果、技術的にみて、実に貴重なデータが得られることにもなったのだが、このようなデータを、従来のような調査方法で求めるとしたら、おそらく経費の点で大変であったろうし、他社も必ず気がついたに違いない。この場合、お客はもちろん喜んでくれるし、しかも純粋の調査費は葉書代もしめてわずかなものでる。ギブ・アンド・テイクでありながら、お客にはギブ・アンド・ギブを思わせたところに、目をとめていただきたい。

 

 


競争に勝つための一味違う調査方法

 

三、機密保持をしていることさえ機密にする②

 

 

 このようなことから、販売のための情報獲得のための組織というものは、それがあることすら、必要な関係者以外には、知らせないことが望ましい。最近いくつかの会社では、長年使いなれた市場調査という名をやめて、宣伝課といっしょにしたり、商務課という名に改めたところすらあるのである。

 

 とはいっても、相手会社にぜんぜん気づかれずに、いろいろなことを調べることは、実際にはなかなか困難である。この場合の対策として、組織の整備、文書の取り扱い、その他、従来行なわれている常識的な手段は一応とるとしても、調査活動はいつかは気づかれるものと考えて、気づかれかたをうまくやればよい。というのは、こちらで考えている計画の目的とか行動とかを、相手に知られないようにするとか、または別の目的であるかのように擬装すればよいのである。

 

 そのうちで最も簡単で、効果のあるのは、ランダムな手である。これはアンケート用紙などを設計するに当って、こっちが知りたいことだけを入れると、こっちの意図が一度でバクロするから、それ以外のもっともらしい質問をたくさん入れておいて、実際の集計には必要なものだけをピックアップするのである。

 

 たとえば、自社の技術的欠陥を調べようとするのに、価格とかデザインとか、または支持する政党などまで、もりだくさんに入れて、マスクしてしまう方法である。

 

 またある大メーカーでは、価格の調査を年中やっているが、それは局地的に時々いろいろな価格で売ってみるという試験販売の方法をとっている。すると他社の情報網には、もちろんすぐ引っかかるので、スワこそと思うのだが、年中ランダムにやっているために、一時はいろめき立っても、だんだん馴れっこになってしまい、本物のときにも気づかずに見過ごされてしまうことになる。つまり、年中狼が来たという手である。このようなやりかたをされると、相手は奔命につかれることになるが、もちろんこの裏を逆にかく方法もある。それは何でもないことなのだが、少し考えてみていただきたい。

 

 しかし、真に巧妙に計画された調査は、その意図を外部からうかがうことは、ほとんど不可能に近い。ここでいまひとつの例をあげるとしよう。 

 


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三、機密保持をしていることさえ機密にする①

 

 

 ハカリゴトは密なるをもってよしとする、といえば、近頃では、多少おかしみをもって受け取られることもあるようだが、販売においては、実に真剣な問題である。

 

 いまの予測の問題のあとに、切り抜きの話をしたのは、相手会社の新製品とか、方針などについては、普通の調査方法では、有用な情報を求めることがきわめて困難だからである。そして、われわれの利用しうる最も信頼できる情報は、その会社固有の行動に関する制限条件をいかにつかむかということであり、その具体的手段としては、その歴史的事実からの繰り返しの発見である。

 

 もちろん、これを実際に利用するためには、業界により、相手会社により、それに最もふさわしい方法を考案することが必要になるが、これだけは実例をあげるわけにはいかない。それについては、許された紙面では書き切れないといってごまかしたいのだが、実はむしろ、これを発表することは徳義上の問題になりかねないからである。

 

 このような、機密保持のことについては、まえがきで述べたように、科学や芸術の世界ではどうか知らないが、生産もしくは販売といった、企業経営の手段と結びつく分野では、最も有効な手段はあまりにも有用なために、発表されないのが普通である。

 

 販売のために行なわれる種々の調査や実験は、どのようなファクターをとりあげるかについてはもちろんのこと、その計画をたてたこと自体が、実は会社にとって重要な秘密というべきである。

 

 すなわち、もし他の競争会社が、相手が十分計画された販売調査を実施しているという事実を知ることができたならば、その会社は特別な調査を行なうための手間が、大いに省略できるだけではなく、相手の調査に対して、自社に都合のよい情報を入れることさえ、可能となるのであることは、以前にテレビの視聴率調査を、民放数社が共同で実施した際、その週に限って、強力な特別番組を放送して、物議をかもした例からみても明らかなことである。また、それほどまでにやらなくても、相手会社が市場に打つ手さえみていれば、これが現在の市場に対して、最もよい手であることを、信頼度の高いデータにもとづいて実施しているに違いないということから、自己の手を直接下して調べなくても、妥当な判断を下すことが、容易にできることになる。 

 

 これは、サンプルの数がゼロで、調査費用もゼロの市場調査のひとつの方法であって、これがさらに巧妙となれば、調査費用マイナス、つまり、これから逆に収入をあげる方法も可能である。

 

 だから私は、近頃ひとつの流行のように、自分のところではこのように調査を実施していますといったことを、得々と公の席上で自慢している人をみると、それがかけひきのためになら別として、大真面目であればあるほど、この人の頭はどうかしているのではないかと疑いたくなることがある。

 


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二、誰にでも手に入る資料から極秘情報を得る

 

 これまで述べた話を聞いただけでは、市場に手を加えて、発生する事実について調べることだけが、調査のように聞えたかも知れないが、実はその前にやるべき仕事で、しかもやりかた次第できわめて有効な方法がある。それはノリとハサミによるデータの収集である。

 

 第二次大戦の直前に、英国で各国の軍備に関する著書が出版された。ところが、その中のドイツの項目は実に精しく、兵力の配置や各師団長の経歴はもちろん、その性格のようなものまで、こまかく調べてある。これを読んだヒトラーはなんとかその著者をつかまえて、情報の出所をおさえる必要があると考え、秘密警察ゲシュタポに命じて、スイスの出版社の名前をかたっておびき出し、ついにドイツへ連行させた。

 

 そして、著者がどのようにして情報を入手したかについて、彼みずから質問したところ、実に意外な返事が返ってきた。というのは、それは何もスパイとか特別の資料によったものではなく、ノリとハサミによって得たという。つまり、毎日の新聞や雑誌、ラジオニュースやいろいろの催物など、誰の目にもふれる情報の中から、切り抜きを作り、それをこまかく系統的に分析することによって、指揮官の名前はもちろん、家族からクセ、友人関係など、ほとんど完全な資料を作成したというわけである。

 

 これはマサカと思われるかも知れないが、実に有効な手段である。これまでも、新聞の切り抜きのスクラップを作っている会社はいくらでもあるが、その多くは、女の子にまかせきりである。これはむしろ新聞の縮刷版でも買うほうがよほどましである。

 

 ところが、その道のエキスパートが自分で切り抜き、系統的にまとめ、ある目的のもとに解析すると、俄然物凄い威力を発揮するようになる。このようなやりかたの実によいところは、ひとつの事実についても非常にいろいろな角度からのニュースがあり、しかも、相手会社の責任者の意見まで、時にはついている完全な情報が得られることである。そして、馴れると相手会社の社内で幹部同士が仲が悪いとか、その人々の性格など、普通の調査では得られない微妙な点までわかることは、実におどろくべきものがある。

 

 ノリとハサミでやる方法は、ねらい撃ちに近いやりかたである。しかも金はほとんどかからない、よいセンスがあれば、あとは忍耐力だけの問題である。

 

 


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一、統計的手法で他社の打つ手が予測できる③

 

 このようにタネを明かしてみれば、まったく当然のことのようであるが、このやりかたから、実に重要な二つの原理が事実であることが証明されたのである。それは、

 

 ①ある時期に、その会社が現実にとりうる行動というものは、いろいろな制約によって、それほど多くは存在しない。

 

 ②そして、この制約が、具体的に現われたのがその会社の行動だから、これを統計的に解析していけば、その制約の存続する限り、かなりよく次の手を推測することが可能である。

 

 このような繰り返しの原理が、はからずも発見されたわけであるが、よく調べてみると、どのような会社についても、この種の共通的な原理は、必ずみつけうるものであって、それさえのみ込めば、たやすくその裏をかくことができる。最近もあったことであるが、その業界ではわが国でも一、二を争うメーカーが市場調査課を強化して、調査活動を活発にやり始めたのであるが、少したつと、どうもおかしな結果が出ることがある。そのため、担当者も自信を失いかけたのであるが、よく調べてみると、競争相手のメーカーに策士がいて、この会社の調査屋の活動をこまかに調べ、それを利用して逆手を打っていたからであった。

 

 この種の原理は、第二次大戦以来の軍事上の目的によく利用されている。たとえば、高射砲で飛行機を射撃する場合、操縦者がまったくデタラメに舵をとって逃げたつもりでいても、飛行機の運動には、速度や旋回性能など、多くの制限があり、また人間の心理的条件から来る行動の限界があるため、それ以外の影響、風による弾道の変化などがさらに加わっても、最もよい未来位置、つまり予測をし、命中精度を非常に改善することができるのである。

 

 われわれの販売についても、一番大きな問題は、相手が次にどの手で来るかの予測であって、そのためにはいまのような考えかたは、きわめて有用である。

 

 


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一、統計的手法で他社の打つ手が予測できる②

 

 そこで、この商品についても、大体過去二年間にわたり、次のような表を作成してみた。それは、

 ①自社の市場についての予想と計画。

 ②自社が実際に打った手。

 ③他社が市場について考えている計画について、こちらでたてた予想。

 ④他社が具体的に起こした行動。

 ⑤その月の市況と、各社の新しい行動による市況の変化。

 

 以上の各項目について、月ごとに詳細なリストを作成して、これについての統計的解析を行なってみた。ところが、これで実に重大なことが判明したのである。それは、

 ①各社の製品に共通した基本的な型が、n種類ある。

 ②会社によって異なるが、新製品から次の新製品が出るまでには、設計の難易や価格による因子を考えに入れると、明らかにひとつの周期性があり、デタラメな時期に、新製品が現われることはほとんどない。

 ③そして、ある時期に出す新製品の種類は、いまあげたn種の型のうち、その時期において、型が旧式となってしまったものか、または他社との競争で押されて売りにくくなったものである(つまり、売れ行きとの間に、大きな相互作用がある)。

 ④価格については、n種類の型について各社ごとに業界でひとつのランクがあり、それを当てはめてみたとき、はずれるとしてもせいぜいプラス、マイナス三〇〇円くらいには必ず入る。

 

 ということであって、これはとりもなおさず、その時期に、その会社が市場に打ちうる手のうちから、最良のものを選択していることに相当する。そこで、このような分類をもととして、その会社の傾向と、技術および製造能力などをみれば、実に簡単に他社の新製品の型はもちろん、その販売時期から、価格まで、予測することができるようになったのである。そして、その予測は、どの型が出るかについては、敵中率が実に九〇パーセントに近く、発売時期も大体プラス、マイナス一ヵ月くらいで当たるという実績を示した。

 


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一、統計的手法で他社の打つ手が予測できる①

 

 あまり堅苦しい話がつづきすぎたので、ちょっと息抜きに面白い、しかし聞かされると、ガクゼンとする話を紹介しよう。

 

 販売市場における競争会社が、次にどのような製品を出すかは、これが直接その市場の勢力均衡を変える原因ともなるのであって、いずれの会社においても、これを探知するために、あらゆる努力を払っていることは、いうまでもない。そして相手会社ももちろんその意図は秘匿しつつ、競争会社の計画を、調査しているのが普通である。そしてその場合、相手会社の次期の計画を読みとるための一般的方法を発見することは、はなはだ困難であり、従来、業界の情報通の意見、市場での傾向、競争会社の計画者の能力などから、これを探知することが一般には行なわれている。この場合にも、統計的方法は、一体使えるものであろうか?

 

 それについてひとつの例を紹介しよう。ある商品(これは秘密性を保つために名をあげない。読者は一般の大衆商品、たとえばビデオ、電気洗濯機、ステレオ、カメラのような、流行の移り変わりがはげしいものを想像していただきたい)がある。これは高級のものから普及型まで、非常に多種多様の性能のものがあり、価格もその上下では、数倍も差があるものであって、常に新型とか新価格とかが、その業界の話題をにぎわしているものである。そして、これまで、ある会社のある型の製品が市場の人気をさらっていても、これを上回る新製品が出現することによって、その翌日から、売れ行きの量が、ガクンと落ちることが珍しくないほど、せり合いのはげしい商品である。それで、この業界では、相手会社の次に打つ手を予想することは、経営者または営業マンにとって、最も重大な意義があるものである。

 

 さて、この場合、相手会社の次に打つ手は、ちょっと考えると、まったく知恵の問題に属し、われわれが外部から予測することは、はなはだ困難であると考えられるが、実はどんな会社もそのスタッフの能力、生産設備、市場からの要求などによってきまるある限界がある。時にはとんでもない商品を出すことはあるとしても、きわめてまれであり、大部分はその枠の中で、最良点を求めて努力しているのが普通である。しかも、実際に調べてみれば、わかることであるが、そのような枠だけではなく、会社によって固有の習慣性もしくは繰り返しが、必ず存在する。

 


市場調査は目標の設定からはじめる

 

四、期待値を理解することが必要な理由② 

 

 ところで、われわれが事実をもととして、何かの方法を採用しようという場合、判断の基準になるのは、やはりそれによって、いくらかにの利益を期待しているからである。この場合に、たとえばA、B二つの広告方法があって、この差が大きいときは、ほんのわずかのデータで十分判断がつくであろう。しかし差が小さくなると、はっきり差をつかむには、非常に多くのデータ、つまり金が要る。しかし差が小さくても、よいほうをとればわれわれの受ける経済的利益とか、または業界における地位のハンデキャップが、大きくつくということが予想されるなら、それだけの手間と金をかけても、差を検出しなければならないであろう。そこで、調査や実験における必要なデータの数は検出しえた差による利益の期待値(答が必ず当たるとは限らない、やはり当たる確率がある)と、それを検出するために必要なデータをとるための費用とのかねあいということになる。

 

 ところがいま述べたように、データをとるに必要な費用と、精度の改善とは直線的に比例しないで、データ一個当りの経費に対する利益改善はあるところから急速に悪化する。

 

 この場合、どのあたりに、最もよいデータの数があるかについての研究は、すでに多くなされていて、結論もいろいろと与えられているが、ここでとくにいっておきたいことは、カンが九割も当たる人、といえば、普通なら名人の域であるが、そのような人でも、わずか数十のデータに劣ることが多いことが、計算で証明されるということである。

 

 このようにいうと、どうやって計算したかと思われるかも知れないが、九割当たるとは、はずれる危険率が一〇パーセントということであるから、この危険率で、かつ調査費用ゼロとして、利益の期待値を出せば求められるわけである。

 

 ここではオーソドックスな話だけを述べた。しかし、データの信頼度は、必ずしもデータの数だけではきまらない。何を調べるのかのほうが実は重大である。

 

 ギャンブルといっても、宝くじのときと競馬や競輪では、期待利益の性格が多少違う。宝くじの当たるチャンスは、発行者のきめた値以上にはならないが、後者は、こちらの自由選択の余地があって、やりかたで期待利益はプラスにもマイナスにもなる。さらに競馬八百長となれば、期待利益という統計屋の言葉を使わず、まさに期待した結果にするというべきである。

 

 販売においても、もちろんそうであって、やはり問題は、何について何を調べるかが問題である。市場の占拠率なども、ある役所の引出しをちょっとみせてもらったほうが、あらゆる点で早い場合がある。

 

 話が再び横道にそれたが、期待値という考えかたが理解されれば、保険をどのくらいかけておけばよいかも、おのずから理解されることと思う。この場合に保険とは、奥の手とか、切札とかいったほうがよいかも知れない。山内一豊の妻もそれである。しかし販売の場合の保険に相当するものは、性質がちょっと違う。それは常に更新しておくことが必要である。その判断が時に応じ適切であれば、安定した企業ということになる。

 

 


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四、期待値を理解することが必要な理由① 

 

 昔は射倖心をそそるというので、禁止されていた富くじが、いろいろと都合よい名をつけて現われた。そのひとつが政府の宝くじである。そして、これが出現した当時は大変な人気を呼んだものである。近頃は世の中が落ち着いたせいか、なかなか当たらないことがわかったせいか、だいぶ落ち着いたが、それでも夢を追う人は多い。

 

 そして、昔もいまも変わらないのは、これを買う人々は、やはり一〇〇〇円かなにがしかの金を出せば、一〇〇〇万円当たるだろうということを期待して買っていることである。しかしこれからいう期待とは、そのようなものではない。何かのはずみで、どちらにころぶかわからないというもの、たとえばサイコロをふったときに、出る目の数は平均としていくらになるであろうか、といったことである。サイコロの目の数の期待値は、この場合、三・五になる。いやに半パな数だが、どの目も出るチャンスが平等だとすると、一から六までの数を足して、六で割ればその期待値として、いまの値が出る。

 

 ところで、いまのサイの目が一と出れば一万円、二と出れば二万円といった具合に、出る目の数だけの金をもらえるというバクチがかりにあったとするとき、一回サイをふったとき、いくらもらえるかの期待できる値は、いまの原理からみて、三万五〇〇〇円ということになる。これが期待値である。

 

 そこで、このようなルールで、バクチを開帳したとする。そして胴元が、客人に一回サイを振るごとに四万円出せということにしたとすれば、一回サイを振るときの期待値は、差引き五〇〇〇円プラスとなるから、胴元は損をしない。もし、一回三万円ということにでもすると、やればやるほど損をするであろう。この場合、一回や二回の勝負なら、なかには運のよいのがいて、六とか五の目を出すかも知れないが、何回もやっていれば、平均として三・五になるはずだから、胴元は利益計画をあらかじめたてることが可能である。

 

 このように簡単なゲームなら、ちょっと頭のよい人なら、すぐ損得がわかるが、これがパチンコの球代と、入る確率、それに景品の点数との関係などということになると、話がだいぶややこしくなる。それにパチンコのときは、入る確率を、お客に逃げられない程度でコントロールしているから、これに対して、一番よいパチンコ通いの方法となるとまさにゲームの理論、かけひきの問題ということになる。

 

 さて、今度は真面目な商売の話である。われわれが、データによって統計的判断を下すときには、その結論がどのくらいの危険率で信用できるかを、計算で求めることができる。そしてその危険率は、データの数が増せば一般に改善されるが、その程度は先にも述べたように、データが二倍だと二倍よくなるのではなく、四割くらいしかよくならない。つまり、データの数の平方根でしか利かない。

 


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三、危険率はどこまで小さくすればよいか 

 

 先にも述べたように、ランダム抽出の原理を使えば、平均値をいくらでも真の値に近づけることができる。逆にいえば、判断の偏るチャンスをあらかじめ計画した値以下におさえることが可能である。ところで、この危険率はどこまで小さくすればよいだろうか。近頃、新しい統計的方法による報告書を読まれたかたは、危険率五パーセントにおける信頼限界といった言葉にぶつかるであろう。五パーセントといえば、二〇回に一度くらいは、真の値がその区間外に出ているチャンスがあるということで、それを無視するのは、はなはだ危険ではないか?と心配になる読者があるかも知れない。しかし、このくらいの危険率は、われわれの日常生活ではゼロとみなして行動している。

 

 勤め先から、電車で平均一時間くらいかかる所に住んでいる通勤者がいたとする。この人は、朝何分前に家を出ればよいであろうか?平均値で一時間かかるからといって、一時間前に出るとすると、その人はおそらく二日に一日はおくれるであろう。というのは平均とは、それより少し早く着いたり、おそく着いたりすることがあって、その大体中間が一時間だということだからである。そこで、このような多少の遅速を考えて、一時間五分とか、十分くらい前に家を出るのが普通であろう。

 

 ところが、ある日電車事故か何かで、二時間かかってしまった。といって翌日からその通勤者は、二時間前に毎日出かけることにするだろうか?一年中絶対に定刻前に着くには、たしかに二時間前に毎日出ることが必要であろう。しかも電車事故は、一年に二回や三回は誰でも出合う自然現象のようなものである。

 

 しかし、だからといって二時間前に、毎日家を出る人は、まずあるまい。というのは、その程度のチャンスを完全にカバーするためには、毎日あまりにも大きな犠牲を払わねばならないからである。そこで、実際の行動をとるには、そのくらいの危険率は多少あっても、そのようなことはゼロであるとしたときに、とる行動と同じ行動を選ぶのである。 

 

 われわれの日常生活は、すべてこのような統計的判断の上に立っている。われわれが明日死なないという保証は何もない。しかし、健康人の場合、毎日の仕事は、明日死なないという前提のもとで計画している。しかし、死ぬチャンスはゼロではない。もし死ねば、はなはだ困ることになる。そのために保険をかけるのである。例外の原則はこの場合にも有用である。

 

 先の通勤の話の場合には、例外の原則として、いつも自宅から勤め先までのタクシー代金を用意しておく。このようにすれば、事故のあった日でも、まず安心であるということになる。

 

 しかし、われわれの日常の判断は、五パーセントよりももっと悪い危険率でも、それをゼロとみて、いろいろなことをきめている。しかも、そのほとんどは危険率がどれぐらいあるかさえ考えていない。このような場合、その危険率と利益とのかねあいにおいて、価値判断の線をどこで引けばよいか?その具体的な物差しを与えたのが、統計的判断論なのである。そして、保険をかけるにも、これから妥当な線が出ることになる。いまひとついえば、商売として統計がなければ成り立たないのが、実は保険業界なのである。

 


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二、評価の物差し目盛りは等間隔ではない③ 

 

 いまひとつは中央値を使う。金額の多い客から順番に並べてちょうど真ん中にきた客の数字を使う。日本の貯蓄統計はひと昔前までは平均値を使っていた。すると大金持がいると平均値がつり上げられるので、いまは中央値も同時に発表されている。平成四年でいうと、一世帯当り貯蓄の平均値は一二〇〇万円だが、中央値は七二〇万円といった具合である。

 

 しかし、このような手段は、あくまでも現象を数字で記述する場合に、その物理的意味をつかんだり、行動の判断を下すのに、最もふさわしい物差しを求めて変換するというやりかたである。したがって、この変換によって、実測値の小さい値、大きい値が、平均に対してどのようにウエートがつけられているかを、よく考えて行なう必要がある。 

 

 この種の問題は、科学技術の分野においては、その研究がすすみ、数量化の方法として公式化されつつあるが、販売の分野においては、まだするどい直感と、経験とを要求されることが多い。しかし、これまでのような単純な算術平均で、判断を下すということの危険性を理解していただければ幸いである。

 

 先に会議で大声を出す人という例をあげたが、放送の街頭インタビューにしても、クレーム調査にしても、とんでもないことをいう人がいたり、また答が出たとき、それも事実だからというので、単純に集計することの愚を改めたいものである。昔から声なき声を聞けという言葉もあるが、算術平均では、小さい数字が過小評価されることになる。対数変換をすれば、小さいほうが過大評価される。このあたり、どれを使うかは、調査屋の腕のみせどころである。

 

 さらにヒントを与えると、クレーム調査などは、その絶対値としての数字は、製品の品質改善のためには、その必要は必ずしもないのであって、他の商品についてのクレームの数字との比較だけが問題なのでる。とすれば、その比較をするときの検出力が、一番よいような数量化をしておけばよい。つまり、数字を求めるのは、われわれの目的のための手段であるから、その目的に最も都合のよい物差しをきめればよいのである。このようにいえば、別に対数とか平方根を求めなくても、その数字を何段階かに分けて、点数をそれぞれに与えても、いっこう差支えないことになる。

 

 事実、このように区分けをして点数をつけるやりかたでも、合理的に配分すれば、検出力は対数変換のときとあまり変わらない。

 

 先ほどあげた売場の一人当り売上げをみるようなときは、個々の金額を順序にならべて、ちょうど中央の値をとるほうが妥当なことが多い。これが中央値(メディアン)である。そのほか頻度の一番多い値をとることもある。それは流行値(モード)と呼ばれている。

 

 物差しの問題については、以上でもわかるように、①これが現実を示す物差しとして適切であるかどうかについて、物理的意味を考えること、②必要があれば、ひとつのことについても、なるべくいろいろな物差しをとって、補助測定値として相関を求め、偏りを修正する、③過去の調査の結論と事実とを比較して、適切であった尺度についての研究、④場合によっては、物差しをきめるための予備的調査を行なう。これには、層別の要因や、必要なサンプル数の決定をも含めて行なわれるのが普通である。

 


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二、評価の物差し目盛りは等間隔ではない② 

 

 逆に、広告や売出しの効果を調べるにも、物差しの目盛りを変えておけば、金額では検出できなかったような、こまかいところまで、はっきり数字でつかむことが可能になるのである。

 

 いまあげた例は、調査とは違うが、われわれが市場のいろいろな現象を調べるために数字を集めるのは、その数字で現象を完全に抽象化して、記述できるものでなくてはならない。たとえば、いろいろな調査データをまとめて現象を記述するのに、平均値をとって単純な算術平均を用いることが多いが、それが一番よいという保証は一般にはないのである。

 

 デパートのように多くの売場があって、各売場のお客一人当りの売上げから、客種を推定しようといった場合に、単純にその算術平均をとると、とんでもない誤りを犯すことがある。というのは、その調査期間中に何かの理由で、他のお客よりも一桁または二桁も多くの買物をするお客が一人でもあると、その一人のために、平均値がはなはだしく偏ることになるからである。つまり、五〇人のサンプルを調べたところが、そのうち一人だけが、他の人々の平均の五〇倍もの買物をしたという極端な場合(実は案外あることである)、全体の算術平均は、その人一人が入ったために、入らないときのちょうど二倍になってしまう。しかし売場としては、そのようなお客も大事だが、残る四九人のお客も大事である。それで、これらをこみにして売上げの判断をすると、層別の例をひくまでもなく、はなはだおかしいことが起きることになる。

 

 つまり、このような計算方法では、売上げの多い一人の客の数値があると、算術平均では過大評価となるわけである。このことは、会議などで大きな声を出す人がいたり、ねばりにねばる人がいると、そのわずか一人か二人のために、大部分の人が考えてもいなかったような方向に会議がいってしまうことと似ている。 

 

 このようなときは、一人当り買上げ金額の対数をとって平均値を出したほうがよい。いまの例のように、一〇倍とか五〇倍くらいの買物が時々あるときは平方根の平均くらいがよい。もっと差の大きいときは対数を使う。この場合、算術平均(物差しの目盛りは等間隔)の代りに対数の平均を使うということは、先へいくほど目盛りがつまっている物差しを使うことになるわけで、これによる判断のほうが、目的によってはよりやさしく、またそのものズバリに現象を表示することとなるものである。

 


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二、評価の物差し目盛りは等間隔ではない① 

 

 このようにして、うまい尺度をみつけたとしても、その尺度の目盛りをどうするかの問題、統計屋の言葉でいえば、数量化の問題がある。

 

 われわれが、このようにしてデータを集めるのは、それをもととして判断を下すためである。だから、この物差しで示された数字は、市場における現象を比較するために、最もふさわしい目盛りがついていなければならない。

 

 たとえば、どのような会社でも大体そうであるが、営業活動がうまくいったかどうかの判定には、売上げ総金額で示していることが多い。全国にいくつかの出張所があると、その所長の努力は、販売目標をどれだけ達成したかで判定される。しかし、このような数字で評価してよいかどうかについては、いろいろな疑問がある。

 

 古い話になるが、わが国でも一、二の規模を誇る、ある強電メーカーが電球を作って売り出したころ、ずいぶん手をつくしたのだが、なかなか伸びない。品物は決して悪くなく、宣伝もかなり力を入れているのだが売れない。その分析を行なってみたら、実に簡単な理由によることがわかった。それは評価の問題なのである。

 

 その会社では従来、大物しか売ったことがない。発電機を売ると、一台売れば数十億円から一○○億円の実績がとたんに出る。そして、そのための販売努力としては、せいぜい競争社会にさぐりを入れるとか、お得意とどこかで一杯飲むといったことをしておれば、たちまちこの数字が出てくる。ところが電球を一○億円売るとなると大変である。気むずかしい問屋や小売店のオヤジにまで頭を下げて一○○個だの二○○個だのと注文をもらって、やっと月に数百万円である。しかも当時は何かといえば、お前の部はわが社の売上げの数パーセントしかやっていないではないかとやられる。 

 

 これで売れたら不思議のようなものである。これは別に強電メーカーだけでなく、どこの会社でもあることである。各営業所にしてみれば、どうしても売りやすくて、値の張るものを売りたがる。乾電池などはそのよい例で、一○万円の電気洗濯機一台を売る努力と手間とからみると、乾電池などは馬鹿臭くなる。

 

 そこで、その会社では、判断の目盛りを変えたのである。販売成績は、総金額でなく点数でいく。電球を一個売ったら一〇点、洗濯機は六〇点という具合に、その努力が適切に評価できるように点数をわりふり、その合計点数でいく。そして来期はとくに電球が売りたいとなれば、電球の点数を上げてやればよろしい。何も営業の尻をたたいて、電球を売れといわなくても、ひとりでに売れていく。

 

 


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一、目標について共通の尺度をもとう② 

 

 いま、企業イメージならイメージ調査をすればよいといったが、実は企業イメージという言葉自体が、はなはだアイマイである。つまりイメージとは何かの煮つめがいる。たとえば技術力があるというイメージとは、どういうことでわかるのですか?と聞いてみる。いやそれは何かというと、世間の話題になることでわかるという答だったら、世間の話題としてあがるようになったかどうかを調べればよい。

 

 技術力という、どうにでも解釈のできるような概念でも、現実によいイメージとか悪いイメージというのが、世の中に存在している。そして誰もがそれを感じている。それなら、具体的にどのようなときに、どのようなことがあると、技術力があると感じるのかということをトコトンまで追いつめ、根堀り葉掘り聞いてみるのである。そうなると意外なところに、うまい調べかたのあることを発見する。

 

 さて、これからのことからもわかるように、販売のための調査をしてみると、これまで販売関係で使われている言葉の内容が、実にアイマイであったことに気づくはずである。科学はまず共通の言葉をもつことから始まる。すなわち、それによって結論の客観性をもたすこともできるようになるのである。

 

 尺度についても事情はまったく同じである。このようにして、共通の言葉を定義する作業の過程から、実は測定のための方法や尺度も生まれてくるのである。

 

 ところで、いまひとつ注意しておきたいことがある。それは販売のための調査の目的は、あくまでも販売そのもののためであって、知るための調査ではないということである。つまり、なぜ売れるかではなく、どうすれば売れるかである。したがって、ここで選ぶ尺度も、その判定がつくようなものを中心として考えれば十分である。

 

 先に電話機の色の好みの調査において、消費者の意見はベージュ色が好評だったが、実際には昔からの黒色が一番たくさん出たという話が出た。この場合、なぜ黒ばかり売れるかという理由がわからなくても、黒が一番よく売れるということを、誰も知らないうちにつかんだとしたら、それで成功である。

 

 よくいわれるように、人間はその本音とたてまえは必ずしも一致しない。人に聞かれたときアンケートに書いてもらったとき、対話をしながら話した内容、さらに実際にどのように行動したかをくらべてみると、なかなか一致する人はいない。これは本人がわざわざウソをついてやろうと思っているのではない。それが人間というものなのである。

 

 したがって、何について調べるかは、机上でいくら議論しても一○○パーセント確かな方法はみつからない。

 

 そこには多くの経験の積みあげが必要であって、一種のノウハウとでもいうべきものがある。ただ一般的にいえることは、そのデータが目的に対して、どれだけ再現性と普遍性を示すかという立場から、経験を積みあげていくのである。

 


市場調査は目標の設定からはじめる

 

一、目標について共通の尺度をもとう① 

 

 工場や研究室で行なわれる実験や調査では、何を調べるかは、はじめからはっきりしていることが多い。長さ、目方、純度、不良率、コストなど、尺度の選びかたについて、とくに額を集めて相談しなくてもよいのが普通である。

 

 しかし販売の分野では、同じ目的であってもこれを計画する人によって、またそのときの状勢によって、まったく別の尺度をそのつど、よく考えてつくらなくてはならないのが、むしろ一般である。

 

 たとえば広告の結果がどれくらいあったかを調べたいという命題が与えられたとする。この場合、買ったお客にアンケートを出してみればわかるさ、と考える人もあるし、いやそれには心理測定をしてみなくてはわからないはずだと主張する人もいる。商売のためなんだから、とにかく売上げがふえたかどうかが問題だ、その数字をこまかく分析すればわかるさ、という人も出てくるだろう。

 

 これらの意見は、それぞれ根拠があるとしても、具体的にある特定の広告について、どの方法によって調べるかは問題である。広告の最終目的は、もちろんそれをしなかったよりも、売上げをのばし、安定した需要をつかむことにあるのが普通である。しかし、お客が広告をみて、実際にそれを買うという行動で完結するには、広告以外の多くの要素がからみ合っているから、たとえそれで売上げがふえたとしても、その中から広告の効果だけを純粋にとり出すことは、それほど易しくはない。そこで、もっと他に測定手段はないかと、誰もが考えることになる。

 

 このような場合、堂々めぐりの議論にとどめをさす方法がある。それはその広告のねらいは何か、その効果を何のために調べるかというその目的の研究を、徹底的にすることである。もし広告を出すのが売上げをふやすのが目的だというなら、売上げの変化を調べればよい。市場含有率を高めるためなら、その広告を出す前とあととで、どのように含有率がふえたかをみるのが最も直接的である。企業イメージのためなら、イメージ調査をすればよい。このように述べると、いや広告はそんなに簡単ではない、たったひとつの目的で出すことはほとんどない、売上げもあげたいし、イメージも変えたいのだというのなら、両方を調べればよい。

 

 ところが、ここに不思議なことがある。それはこのような話を広告の担当者にして、さてその広告を出す目的は?と聞くと、明快な答が返ってこないのである。目的がはっきりしない広告について、その効果があるとかないとかいうこと自体、ナンセンスなことは明らかである。

 

 この場合の目的はいうまでもなく、抽象的なのはダメで、具体的であることが必要である。もし抽象的な答しか得られないときは、それがより具体的なものになるまで議論することである。

 


読めばわかる調査方法の原理

 

九、低コストで、データの精度を高める発想② 

 

 最初のうちは、投票が集まっても、それはただ保存しておくだけで、集計せず、従来通りのやりかたでデザインを選定する。このようにしても、きめかたはこれまでとまったく同じわけだから、差支えない。ただ新型が出るたびに、いままでになかったものとして、各人の意見という情報が蓄積されていく。

 

 このようにして、データが次々と集まったころには、企画した商品の実績が出てくる。そこで、個人別に投票した内容と、その結果とつき合わせてみると、いままでデザイン決定の際に大威張りで、いろいろと横車を押していたある部長が、案外デタラメをいっていたとか、女子作業員のような、これとまったく縁のなかったような人の中に、すばらしいセンスをもっているのがいたという具合に、実証されたデータが出てくる。

 

 そこまでくればシメタものである。すなわち従来通り、投票をつづけながら、これをもととしてデザインの決定をすればよい。この場合、本人に、お前はよくいい当てるぞ、といったことを知らせてはもちろんブチこわしになるから、少数の関係者以外には、絶対に知らさないほうがよい。

 

 あるラジカセメーカーでは、大体毎月ひとつか二つの品種を開発しているが、このような方法で投票を次々にまとめてみたところ、大体三ヵ月もすると、ほとんど完全なデータが得られた。そしてそれからあと二年間の実績をふり返ってみると、従来の方法にくらべて、デザインの面における失敗を三分の一にできたことを示している。そして、このメーカーでは、いままでいろいろな面から行なっていた調査をほとんどやめて、この種の投票と、それに付随するいくつかの小さな調査だけに切り替えたのであるが、結果からみて安全性が増すとともに、調査費用は問題にならないほど経済的となっている。これにはひとつの着想が重要な役割りをはたしているが、読者も、具体的な身辺の問題について研究されることをおすすめする。

 


読めばわかる調査方法の原理

 

九、低コストで、データの精度を高める発想① 

 

 この種のやりかたで、巧妙に使われたひとつの例を紹介してみよう。

 

 製品のデザインをきめることについて、配色とかその他、いろいろな理論があるようだが、各人の好みや、市場に出ている各社製品とのバランスとか流行など、他の多くの要因のほうが強く利いてくるのが普通である。それでどの会社でも、その選定は実に頭を痛める大問題であろう。

 

 この目的のためには、デザインは最終的に、お客が喜んで買うというところに目的があるのだから、試験販売のような形で、実際に売ってみるのが一番簡単で、しかも再現性の点もよいわけである。しかしそれには、うっかりするとデザインを盗用される恐れもあるし、そのときの商標をどうするかなど、実行上いろいろな問題もあって、なかなかやってみるのには困難がある。

 

 これについて、ある会社では、いま述べたような計測または記録の可能な要因を、偏りの修正のための補助測定値として使うという考えかたから、次のような方法を採用している。

 

 いままでは、商品のデザイン決定は、会社の営業の一部の人とか、または幹部の人々の意見によってきめていた。確かにこのような人々の経験とカンは、普通の人にくらべてよいことが多いから、一応何とかうまくいっているが、デザインはお客の好みと、他社のデザインとのかねあいの問題がある以上、経験やカンだけがものをいうとは限らない。

 

 しかし、せっかくその会社には大勢の従業員がいるのだから、なるべく大勢の人々の知恵を借りたほうが得である。それで、できるだけたくさんの人々に試作品をみせることとし、各人によくみせて意見を書かせ記名投票をさせる。

 

 これは、ちょっとみると普通の人気投票と形式的にまったく同じようだが、集まったデータの扱いかたが違うのである。

 

 


読めばわかる調査方法の原理

 

八、調査対象を高い精度で組分けするための三要因②

 

 ②母集団の均一化のための層別の要因 -層別因子-

 

 これは消費者の年齢とか、収入、性別のように、こちらで勝手に統制することはできないが、似た性格のものをひとまとめにすることによって、母集団の均一化を行ない、サンプルの抽出誤差を小さくするためのものである。

 

 層別は前にも精しく述べたように、調査の結論を行動と結びつける際に、その有効性を保証するという意味において、おそらくどのような調査のためにも必要となるであろう。場合によっては、単に標本を抽出するための便宜として行なっても、有用であるのが普通だということも、先に述べた通りである。

 

 ③制御することも、調査の際あらかじめ層別することもできないが、これを調べて記録しておくことにより、データの分析精度を高め、推定を容易にする要因 -標示因子-

 

  層別の要因も、広い意味ではそのひとつであるが、たとえば、小売店主が進歩的か保守的かなどは、こちらとして制御することはできないが、その店に対する取引き方法や、取扱い商品の種類または、盆暮のつけとどけの効果などとの間に相関関係が予想されるから、これらを調査の際記録しておき、あとでその関係を求めて、それだけの偏りをさし引いたり加えたりするようにすれば、いろいろな店に対する、われわれの手の効果についての比較のデータを修正し、さらに信頼度を高め、適応性の高いものとすることができる。また調査時の天候、曜日など、その結果に影響があるかも知れない、と思われるものは記録しておくのである。

 

 先に、ランダムでない抽出の話の中で、偏りのある答をするオヤジがいても、それだけ割引いて聞けば、真相がわかるはずだといったことは、実はこのことである。

 

 たとえば、ある商品について試験販売をしてみたとき、ある金額で売れたとする。しかしそれはたまたまその地区にある大工場で、ボーナスがとくに余計出たためであるということになると、この数字をそのままうのみにして全国におし広めようとすると、判断に偏りが生じる。この場合は、だから各社のボーナス金額を、補助測定値として調べておいて、全国平均と比較し、それだけ割引いてみればよいわけである。

 


八、調査対象を高い精度で組分けするための三要因①

 

 どのような要因(ファクター)によって調査対象を組分けして調べるかの問題、たとえばお得意先へのアプローチの方法を研究するのに、相手の年齢別、店の大小、気風の差などといった、いろいろな性格について、どのように区分けすればよいかについては、調査の目的さえきまればきまるものであり、自明のものと考えやすいが、事情はそれほど簡単ではない。その中には、前にも述べたように、それ自体は調査のための目標ではないが、抽出誤差を小さくするため、つまり均一化のための層別を目的として、要因にとりあげるものもあるからである。

 

 それに、われわれが調べるのは、将来その結論が出たときに手を打つということが、大部分の調査では直接の目標であるから、手を打つために、最も都合のよいような要因がとりあげられていなくてはならない。

 

 調査は、このようにしていろいろと区別された母集団というひとつの統計的モデルが、われわれの打つ手に対して、どのような反応を示すかということを調べることになるから、このモデルをいかに形成しておくかが問題となるわけである。それはまた、データがとられた後の種々の統計的処理のためにも重要である。というのは、統計計算のためには、このモデルについて、いくつかの統計的な仮定を入れて行なうのだが、現実がモデルと食い違っていると、結論はすこぶる怪しいものとなるからである。

 

  さて、市場についての調査または実験において、とりあげられる要因を大別してみると、次のようになる。

 

 ①われわれの手で統制する目的で最良条件を求めるための要因

 -制御因子-

 

 これはとくに、行動の選択または判断の問題を解決するために行なわれる調査においては、第一義的なものである。たとえば、商品の価格をいくらにするかという場合、提出されたいくつかの案、デザインとか広告の様式、いくつかの取引方法の提案などは、すべてこれである。そしてこれは、結果が得られたら、ただちに具体的な行動に移されることが目的であるから、実行も、再現も可能であることが必要である。

 

 ここでよく間違いやすいのは、この種の要因の条件の中に、まったく実行不可能なものや、答が得られても、不経済であるとか、二番せんじとかの理由で、どうせ実行のできないようなものを、ちょっとやってみたらどうなるだろうかといった調子で、興味にかられて条件としてとりあげることである。これは少なくとも、判断のための調査としては意味がないだけではなく、それをひとつ入れたばかりに、実験や調査の規模が大きくなり、手間も経費もそれだけふくらむことがあるから、厳につつしまねばならない。

 

 よくアンケート用紙の設計などに、とてもどうにも使い途がないと思われるものを、ついでだから入れる例があるが、それが後述するランダムな手として、調査の目的をポカすためなら別として、無駄なものはやめたほうがよい。それほど経費や手間が余っているのなら、一個でもお客への売り込みに出かけたほうが、よほど会社のためになるといいたくなる。

 

 


七、投書も立派な調査資料②

 

 郵便調査といえば、数千枚もバラマク人があるが、あんなにもったいない話はない。同じ質問項目のものは三〇〇枚も返ればたくさんで、それだけ金があるなら別の内容のものを発送して、同種のものが大体三〇〇枚くらいずつ返るようにする。そうすれば、はるかに多くの情報が同じ手間で得られるであろう。この三〇〇枚という数字は憶えておいていただきたい。

 

 このような方法では、回答に偏りが相当あるような気がするかも知れないが、下手な面接よりよっぽどよいことが、事実によって証明されている。最近アメリカでも面接は次第にすたれて、郵便調査が多くなったといわれるが、当然のことであろう。

 

 このような投書族(マニアとは限らない)は、もっと巧みに利用できる。新聞広告の調査である。先にある会社で新製品を発表するに当り、各新聞の主なものに、まったく同じ図柄の広告を出し、カタログのほしい人には掲載紙記入の上で、請求されたいという文句を入れてみた。

 

 すると旬日ならずして、相当な数の投書が来たわけだが、これは広告効果の調査のようにみえて、実はそうではない。次の作業は回収された投書の数で、その新聞の広告料を割ることである。すると一通の投書に対していくらの費用がかかったかがわかる。この数字を新聞ごとに求めたところ、おどろくべきことがわかった。というのは、ちょうど新聞広告料の値上げの直後だったのだが、そのうちのブロック紙二社だけは、広告料にくらべて投書の数が少なく、一枚当り他紙の大体三倍くらいもかかっているのである。

 

 そこでさっそく、この悪い二紙に対してこのデータをみせ、あなたのところは当社の化粧品の広告効果にくらべて、余りにも広告料が高すぎますから、広告を出すのを停止したいといって、一カ月ほどやめることにした。

 

 すると先の値上げでは、かなり強気であった某ブロック紙の広告部長も、とうとうシャッポをぬぎ、おどろくほどの割引きを申し入れてきたのである。

 

 この場合、よく考えると、このような投書族という偏りのあるデータでは、本当のことはわからないのではないかと思われるむきがあるかも知れないが、われわれのねらいは、つり上げられた新聞広告料をねぎるところにあったわけで、データをつきつけられると、グーの音も出ず、マンマと値切るのに成功したわけである。

 

 それもこの新聞社に調査の専門家がいるとか、またはちゃんとしたデータがあれば、このようなことには、ならなかったであろう。これは一種のゲームであった。その後やられたと気がついたせいかも知れないが、この社では非常に熱心にこの方面の研究をやっている。

 

 

 

 


読めばわかる調査方法の原理

 

七、投書も立派な調査資料①

 

 このごろのマスコミの発達によって、新しい母集団が発見された。命名して〝投書マニア〟ということになっているが、これがいろいろな調査のために、案外有用な資料を提供してくれるものである。

 

 ある化粧品メーカーが、テレビに番組を出すに際して、せっかくそれだけ金をかけるのだから、何か調べたらどうかという話が来た。それでさっそく、私が提案したのはクイズである。プログラムの最終でクイズを出す。そのクイズは、いまの放送されたものを初めからみていれば、たやすく答えられるようなものとする。そして、景品は値段は安くてよいから、ちょっと目先の変わったものを選定することにする。

 

 そして第一回をやってみたところが、例によって、ゴッソリ投書の山である。最初のことなので、クイズマニアがどれくらいいるかを知りたい。そこで、返ってきた葉書に、分類のために番号を付してパソコンに入れ、簡単に分類できるようにして、二度、三度と来たものは全部ピックアップしてみた。すると案外常連は少なく、全体のせいぜい二割以下だということがわかった。

 

 ところで、この回答数を使って、新聞の効果を調べてみた。つまり新聞広告のすみに、今夜何時から××テレビにスイッチを入れて下さい、というあれである。これによって回答数の変化を調べれば、どのくらいの相対的効果があったか簡単にわかる。また、野球放送などの都合で、時間がずれたとき、どうなるかとか、出演者が都合で入れかわると、どうなるかといったことも、実に簡単にわかる。この調査の最大のヒットは、東京でもう一局TV局が開局したときの影響であった。

 

 この調査の経費は景品代がほんのわずかで、TVの電波料からみれば、まったく只みたいなものである。最初、この調査をやるのをあまりよい顔をしなかった宣伝課も、あまりの反響に、景品代までこちらでもとうといい出し、調査費用はゼロとなった。

 

 これをもし、電話調査などでやったとしたら、大変な手間がかかったであろう。視聴率の絶対値は、これまでに行なわれている調査の数字を補正係数として使い、他の期間は、内挿していけば、かなり正確なものが得られる。

 

 この方法の考えかたは、投書マニアというものがあるとしても、全視聴者中でそれが占める割合は、それほど変わらないだろうから、投書の数さえ調べておけば、少なくとも相対的な変動だけはわかるはずだということにある。つまり、一種の有意抽出である。だから、ときどきその偏りを修正しなければならない。それにはこちらで調べなくても、民放連あたりがやってくれるから、それをうまく使えばよい、ということになる。

 

  ところで、この投書調査は、最も巧妙なものである。投書が来ると、毎週その中から、約五〇〇枚をランダムまたは有意抽出して、すぐアンケートを出す。それには当社が最も知りたいこと、たとえば、何社の製品を使っているとか、この間の映画はみに行ったとか、そのときどきにおいて一〇項目のアンケートを出す。このアンケートの回収率はきわめてよく、大体九〇パーセントは返ってくる。それは、クイズを当てたい人種ばかりだから、これに回答しないと当たらないと思うからである。これには葉書代が多少かかるが、回収率からみて、最も安上がりなアンケートである。

 

 発送五〇〇枚といったのは、回収が三〇〇枚もあれば、精度としてわれわれの目的には十分だからである。

 


六、パネルによる調査もやりかた次第で役に立つ②

 

 さらに考えてみると、その店がいくら売ったかの絶対金額などは、普通の目的には必要ないのであって、いろいろな販売活動に対して、需要家の反応がどうだったか、今月は先月より何パーセントくらい悪くなったかどうかの相対的な値だけ、しかも場合によっては、上がったか、下がったかだけがわかればよいのであるから、ランダムでとったサンプルでなくても十分に役に立つわけである。

 

 このように、いくつかのサンプルをきめて、時系列的にデータをもらうやりかたを、パネルによる調査というが、この種の小売店パネルや、消費者パネルは、いかに最初ランダムにとっても、その回答に偏りがないという保証はないのである。それよりも、このような偏りをいかに補正するかのほうが重要なのが普通である。とすれば、最初の層別に注意して(均一化の原理!)、サンプルはその中からうまくねらいを定めて数もできるだけ少なくとるほうが、むしろ利巧ということになる。

 

 実はこのようなやりかたは、われわれも日頃経験的に行なっているものなのである。セールスマンがお得意先を回るとき聞いた情報は、販売員からの情報として貴重なものであるが、この報告書を販売員が作成するときに、お得意の意見をナマのまま記載することは、あまりないはずである。すなわち、あそこのオヤジは、いつも口数が多くて悪口をいうということになれば、割引いて書くであろうし、いつもよいことばかりいうオヤジが、たまたま文句をつければ、特筆大書して報告することになる。

 

 だから優秀なセールスマンとか、巡回員とかは、考えてみると、過去の経験やカンによって、相手の話を、うまく割引いたり、または加えたりして、真意をうまくつかみとることのできる人物ということにもなるであろう。

 

 このような、ねらいを定めて情報をとるやりかたは、そのサンプルの質が問題となるから、ただ便利であるからというだけで、やたらに使うことはもちろん避けねばならない。調査の秘密性を保持したいときとか、ランダムなサンプルでは回答を得ることが困難なとき、またさらに積極的には、特殊なルートから情報を獲得することのできる場合などに使うべきである。またカンのするどい人や、識見の広い人などを、何人かさがして自社のシンパとなってもらい、その人に相談することも、そのひとつに相当するであろう。

 

 しかしいずれの場合についても、他の別な手段によって、これらのサンプルの答の偏りを求めておくことが必要である。たとえば、先にあげた小売店パネルの有意サンプル(ねらい撃ちをしたサンプル)のような時には、他の方法で調べた各社の全販売量とか、または年に一回、または二回くらいの大々的調査によるデータによって、修正係数を求めておけばよい。

 

 このような、有意標本による調査についての理論は、まだ十分完成されたものとはいえないが、一般にこのようなやりかたのほうが、情報の効率、経済性の点において、ランダム抽出よりもうまく使えば、優越しているといえる。ただ現在のところでは、この偏りを修正するための一般的方法が確立していないということから、今後の研究が大いに期待されている段階である。

 

 ランダム抽出の方法は、実は、個々の品物または商店などについて、まったく何もわからないときにでも使える最後の手段で、誰にでも同じように使える。だからといって、こればかりに頼ると、必要以上の手間と経費がかかることになりかねない。

 


六、パネルによる調査もやりかた次第で役に立つ①

 

 いままで述べたのは、市場調査に近代的な息吹きを与えた、最も重要な原理である。しかしながら、販売の場において、これらを具体的に適用していくには多くの制限があり、ときには計画通りのデータをとること自体が、不可能なこともある。このような分野においては、少しでも有効な手段は、すべて利用すべきであるという考えかたから、ランダムな手順によらない調べかたも、また役に立たないとして捨てるわけにはいかない。

 

 それにはいろいろな問題もあるが、ランダム抽出の原理をよく心得た上で利用することは、場合によっては、きわめて役に立つものなのである。もちろんランダムでないやりかたでは、判断の偏りが出る可能性はあるが、それでも目的によっては、十分の回答といえる場合もあるし、またその偏りも、これを補正する手段さえもっていれば、ランダム抽出のデータの代用として、十分に使える。つまり、ハサミも使いようで切れるというわけである。

 

 たとえば、各社が行なっている宣伝や売出し、販売の効果がどれくらいあるか、新製品の出足はどうか、といったことをズバリ知るために、自社および他社の製品が、最終需要家の手に渡る小売店の線で、その売上げを調べることは、とくに大衆商品の場合重要である。そこで例によって、地方別とか、人口密度別とかのいろいろな層別の要因によって、小分けして、母集団をつくり、それからランダムに小売店を抽出する。しかし当たった商店について、データをくれるようにといっても、自社のものについてはともかく、他社のものまで教えてくれるかどうかは、保証の限りではない。

 

 とくに最近のように、大メーカーによる小売店の系列化の動きが強いときには、自社系の店がサンプルに当たっても、他社系の店が当たっても、得られる回答には、ずいぶん偏りが出ることを覚悟しなければならない。

 

 だがしかし、この数字をもしうまくつかむことができれば、それによる利益は測り知れないものがある。とくにその場合、他社の売り込み方法と、売上げとの関係がわかるようなときには、なおさらである。

 

 このような場合には、やむをえないから、これについて毎日または定期的に報告をくれる協力的な店だけをまず選定する。そして、その中から、なるべく代表的な販売量を示す店を抽出して、これから継続的データを求める。この場合代表的とは、そのデータから全体の変動が推測できるという意味で、必ずしも売れ行きの多い店ばかとは限らない。そしてこの場合に、避けられない偏りは、その店がいつも平均より多い目とか、少ない目とかいった具合に、同じ程度に偏っているなら、それを他の手段で偏りの程度を調べ、それだけ補正して真の値を推定する方法を用いればよい。

 

 

 

 


読めばわかる調査方法の原理

 

五、客観的で、しかも偏りのないランダム抽出の理論③

 

 大勢の生徒をならべておいて、その背の高さの平均値を求めようとしたとする。どの生徒を実際に調べるかというとき、全体を見渡して、大体平均で真ん中くらいと見当をつけてサンプルとしてとり、背の高さを計っても、おおよその値は出るであろう。だがしかし、この場合、一人や二人では心配だというわけで、次々と見当で人数をふやしていっても、それが真の平均値に近づくかどうかの保証はない。おそらく、それは、選ぶ人の判断によってきまる、ある偏りを示すことになるであろう。

 

 次にランダムにとるとする。このときは乱数表またはサイコロで選ぶから、サンプル数が一人や二人のうちは、とんでもないノッポやチビに当たるかも知れないから、答の誤差は大きい恐れがある。しかし数をだんだん多くとって、平均値を求めていけば、必ず真の値に近づくのである。

 

 ところで、このようなランダム抽出は、検査とか監査といった目的に使った場合に、別の意味できわめて有効であるという話をつけ加えておきたい。

 

 数年前、ある役所から、公衆衛生の監視について相談を受けたことがある。フロ屋、飲食店から、清涼飲料水、自動販売機の面倒まで、わずかの人数でやっているので、とても手が回らない。そこで少数の人間を集中的に使って効果をあげるために、時に一斉取締まりをやるのだが、事前に情報がどこからか洩れるので、真相がなかなかわからないという話であった。そこで私はランダム抽出を提案した。

 

 まず監視員に背番号をふる。誰が何日にどこへいくかを、乱数表できめる。そのかわり、それで当たったところは徹底的に調べるのである。

 

 このようなやりかたを、フロ屋でやってみたら、いままで合格率九○パーセントだったのが、実に二○パーセント以下というサンタンたるデータが出た。次に清涼飲料メーカーをやったら、合格率三五パーセント、いままでは大抵予告があるから、その時だけよくしておけばよかったが、ランダムだと、いつみにくるかわからない。だからいつ来ても合格するには、年中よくしておくより方法がないことになる。それに、ランダム抽出だから、いまの原理でデータには偏りがない。つまり真相がすべてバクロすることになるので、一石二鳥である。

 

 ちょっと考えると、このようにランダムにやるよりは、あやしいと思われるところを、ねらい撃ちするほうが有効だと思いやすいが、相手にとってみれば、そのようなねらい撃ちは、身をかわす手段がある。この間の事情は、会計検査で官庁汚職が摘発されるのはむずかしいことからも、想像されるであろう。もし、会計検査院が、調査員はもちろん、調査する日も、検査する個所も、まったくランダムにきめて徹底的に調べるとしたら、物凄いことがバクロするかも知れない。だが現実には、このような手段は、あまりにも有効なために、使われないことがある。フロ屋、自動販売機の検査もわずか一年たらずで中止になった。

 

 


読めばわかる調査方法の原理

 

五、客観的で、しかも偏りのないランダム抽出の理論②

 

 ここでわれわれは全部を調べたい。しかし全部を調べても、これを全体としてながめるには、すべてのデータを集めて平均値を求めて比較することになる。それならその一部しか調べられないときには、サンプルとしてとり出されるチャンスを平等に与えてサンプルの平均値を求めればよろしい。たとえば、一○○○人の中から、サンプルを一〇〇人とるというときなら、各人がサンプルとしてとり出される確率を平等に一〇分の一ずつ与えようというのである。このようにすれば、平均値に与える影響力は、少なくともチャンスが同じという意味で平等となる。これを全部を代表するものと考えて差支えないということである。

 

 このような、ちょっと考えると大胆とも思える原理を考え出したのが、推計学の開祖といわれるR・A・フィッシャーである。それまで経験的、直感的にしか行なわれていなかった、少数のサンプルによって全体を推定するというやりかたに対して、ランダムの原理といわれるこの方法は、客観性をもった具体的実践手段を与えたものとして重要なものである。

 

 実際に行なうには、サイコロまたは、各数字の出現頻度が等しいことを確かめてある乱数表によって、サンプルを抽出すればよろしい。

 

 この原理はまた、全数を調べる必要のあるときにも重要である。このときは、ぜんぶ調べるのだから、まちがいないと思い込みやすいが、時間という要素からすれば、やはり時間の流れの中の任意の一点を調べていることになる。このような意味からも、時間という要因について、時点のランダム抽出をやらなければ時間的偏りが入るかも知れない。先に、空間的および時間的にランダムにとるといったことは、この意味で、全数を調べる際にも、必ず必要なのである。

 

 一般に、実験または調査における誤差とは、その計画にとりあげなかった残るすべての要因効果の総合ということができる。そして、ランダムの原理とは、これらの誤差となるべき要因を、ランダムに組み合わせることによって、実験または調査のそれぞれのデータに対する影響を平均化し、偏りをとりのぞくということを、目的としたものである。

 

 したがって、このようにしてデータをとっていけば、誤差の効果が、ある実験または調査の条件に対し、特別に不利または有利なハンディキャップがつくことがあったとしても、その特定の条件に、二度も三度も同じようなハンディキャップがつくことは、確率的にみてほとんどありえないから、データの数を増せば、その平均値は真の値にいくらでも近づくであろうということなのである。

 

 つまり、ランダムの原理で重要なことは、数さえ重ねれば、真の値にいくらでも近づけることが保証されている点である。これらについて面白い実験を紹介しよう。

 


読めばわかる調査方法の原理

 

五、客観的で、しかも偏りのないランダム抽出の理論①

 

 次は、このようにしてきめられた母集団から、これを代表するサンプルをとることである。それには、この母集団全体を、忠実に代表するようなものをとる必要がある。ここでいう代表とは、もちろん、オリンピックの代表選手のような代表ではない。スポーツのときは一番走るのが速いとか、レスリングが強いという代表だが、この場合は、それによって、全体の性質を偏りなく推定できるというようなものでなくては困るのである。

 

 ところが、実際に平均を示す代表をとるということを、どうやれば実行可能かどうかということになると、これはなかなか大変である。第一、それがどのような性質をもっているかを知らないから、サンプルで調べようというのだから、その中からちょうど平均のをとれといっても、話がはなはだ矛盾しているではないかということになる。

 

 それが牛乳のようにかきまぜてしまえば、どこも大体均一になるような場合には、どの部分の試料をとるかについての問題はあまりないが、相手が人間だとか、一個、二個という具合に、数える品物であるときには、ちょっとことである。この場合、全体を一目で見渡せるようにならべることができれば、おおよその見当をつけることもできるかも知れないが、一般にはそのようなことは可能でない。またかりに見渡されるとしても、これからひろい出すのに見当をつけるということは、主観による偏りの入る余地を与えることになる。

 

 全体についての見通しから、サンプルをとるというやりかたは、昔から経験的に、というよりもこの他に方法がないので、行なわれてきた。新聞が有名人に意見を聞くというのも、この種の抽出方法のひとつであるが、本当にそれに偏りが入っていないという保証は、一般にはないのである。

 

 このような目的のために、客観的で、しかも偏りのない安全な方法は、ランダムにサンプルをとることである。

 

 ランダム(無作為または任意と訳されている)にサンプルをとるということは、われわれが調べようとする母集団について、空間的および時間的に、どれがとられるかを、すべてのものについてチャンスを平等に与えてやるというやりかたである。

 

 

  


読めばわかる調査方法の原理

 

四、層別のカンどころ②

 

 全国の小売店を調べようというときは、どうせその名簿が府県別とか、出張所別とかに整理されているであろうから、ひとまとめにして、サンプルをとるより、それぞれからいくつかずつとったほうが簡単である。しかもこれは一種の層別だから、この層の分けかたが、目的のためにふさわしいかどうかは別として、このように分ければ、全国という母集団内での、小売店の性格のバラつきよりも、各地区や、出張所別に形成した母集団でのバラつきのほうが、一般には少なくなっているのであるから、均一化の原理からみれば、精度が改善されることになる。まかり間違って、ある県の中でのバラつきが、ちょうど全国でのバラつきと一致したときだけ、層別の効果はない。そして、全国一本の調査と同じ効率になるだけである。しかし、多少でも地方色というものはあるのが普通だから、層別はやったほうが得である。

 

 ところで、このような層別は、一般にこまかくやればやるほど、それぞれの母集団内でのバラつきは小さくなるわけだが、これをどこまでやるかは、その目的をはたすための、行動に対する市場の反応を正しく判断するのに十分なところで、打ち切ればよい。精度は、ある程度以上改善しても、われわれのとる行動には差がないのが普通だからである。

 

 外部の調査機関などに依頼すると、いろいろとこまかく層別して、調査したデータをもってくる。しかし、あまりこまかすぎると、全体の見通しがかえって悪くなり、読む人によっては、変な具合に、データにウエートをつけて判断することがあるから、この点、依頼するとき、よく目的を明らかにする。そして、層別の要因選定の最終的な判断は、単なる調査屋にはわかるはずがないのであるから、こちらから案を出して、よく相談してきめ、データが出たあとで、シマッタと思わぬことである。

 

 

 

  


読めばわかる調査方法の原理

 

四、層別のカンどころ①

 

 これまで述べたことからもわかるように、調査計画の第一歩は層別から始まる。そしてこの層別のために、どのような要因をとりあげればよいかについても、経験者の意見や、学問的研究、またそれにもとづく理論的推測、さらには鋭い直感とか、過去のデータなどが、重要な役割をはたすのである。すなわち、これらのいろいろな知識または考えは、調査の計画に当って、何を調べるかということをきめると同時に、このような層別のために欠くべからざる重要な意味を有するものである。そして、これによって、一部分しか調べないことによる誤差を、最小限にとどめ、かつ行動との結びつきを、より妥当なものとすることができるわけである。だから場合によっては、どのように層別すればよいかについて、あらかじめ予備的に調べることも、時として必要となってくる。

 

 たとえば、ある商品をセールスマンによって訪問販売をさせようという場合、何時頃にいけばよいかを比較しようとするとき、訪問家庭の家構えによって層別すべきか、職業別がよいか、地方によって分けるか、農業地区、商業地区、ビジネス地区という分けかたがよいかなどをきめるには、その層別のやりかたによって、層内での適正な訪問時刻がどのように変化するかを調べて、最も似た値になるような分けかたをみつけ、これによって層別し、サンプルを調べればよいのである。もちろん、場合によっては、一方向の層別だけではなく、さらにいくつかの要因をとりあげて、いろいろな分けかたを何段にも、何方向にもする必要が出てくるかも知れない。もし、このようなうまい層別の方法が、みつからないときは、いきなり多額の金と人を使って、本格的に大きな調査をやるよりは、層別だけのための予備調査をやるほうが、一般にはるかに安全で、そして経済的である。

 

 また、ときには、そのような予備調査をやってみた結果、本調査をやっても、無駄であるということが発見されて、すっかり計画をねりなおそうということも、実はそれほど珍しくないのである。

 

 標本調査の方法が確立されてから、市場調査の専門家が生まれ、調査は調査屋にまかせておけばよいという空気が、一部の会社にあるようだが、とんでもない話である。販売そのものが実験であって、すべてが調査の対象であるということは前に述べた。また、いま述べた層別因子を思いつく知恵の問題のためにも、経験やカンが重要な意味をもってくる。これらのものは、層別によって必要なサンプルと数が減少し、経費が節約され、しかも有用性が増すという意味で、調査の効率向上の源泉であるといってもよいであろう。

 

 ところで、このような層別は、また調査の単なる便宜の上からも行なったほうが、一般に誤差が小さくなり、望ましいものである。

 

 

 

  


読めばわかる調査方法の原理

 

三、成否をきめる層別②

 

 だがしかし、そのような数字も事実であるから、何かを物語ってはいるのであって、魔術の一言で捨てる態度はやはり科学的とはいえない。ただこれは、われわれのねらっていた目的のために、必要な面についての有用な情報を、与えてくれなかったというだけのことなのである。ここで前に述べた事実と真実との話の中の、真実とは何かということが明らかになる。つまり、前に述べた調査における真実とは、一口にいって、われわれのねらっている目的に対して、これを正しく反映してくれる実態の側面であるということができよう。だから目的なしには、真実とは何であるか、またどのように調べるのが妥当かどうかは、断言できない。それは、われわれが形成するものである。

 

 だいぶ理屈っぽくなったが、層別のやりかたは、だからわれわれの行動の目的によって、当然異なってくる。たとえば、PTAの寄付金の金額はどれくらいになるかを目的で調べるのなら、学年別というのはほとんどナンセンスとなって、保護者の職業とか、地位別、または住んでいる家の大小、ピアノの有無などで層別したほうが役に立つ。最近は、それでも統計技術がだいぶ普及したので、層別をした調査データをよくみかけるようになったが、いまだに目的を考えない層別の多いことには困ったものである。それが世論調査とか、その他の実態調査のためなら話は別だが、(本当はやはり困ったことなのだが、あまり被害は与えない)、いまの例でいうなら、所要カロリー決定に当って、保護者の家の大小で層別するような見当違いなやりかたが、販売という切実な目的であるのに、はなはだ多く見受ける。

 

 層別は巧妙にやれば、サンプル数は極端に減少し、目的によっては一人調べただけでもわかることがある。たった一人では、誤差の計算ができないではないか、という人があるかも知れないが、販売のための手の決定には、それでも十分なことがある。われわれは統計計算をやるために調べているのではない、ということを、ここでいま一度強調しておきたい。

 

 

  


読めばわかる調査方法の原理

 

三、成否をきめる層別①

 

 販売のために行なわれる調査には、必ずなんらかの行動がともなう。それはただちに次に打つ手となることも、または計画決定のための資料となることもあるであろう。しかし、そのいずれの場合についても、層別がまずいということは、誤差が大きくなって、調査の効率が悪くなるということだけでなく、この調査からの結論が、そのものズバリで適用できる範囲が制限され、有用性がいちじるしく減少するという事態をまねく。

 

 たとえばいま、小学生の給食カロリーの必要量を求めようという目的で、六○名のサンプルで調査を行なうとする。この場合、サンプルのとりかたとしては、全校生徒をひとまとめにして、母集団と考え、任意に六○名をとるというやりかたもあるし、各学年別に小分けにして、六つの集団をつくり、それぞれから一○名ずつの計六○名を選ぶ方法もある。

 

 しかし、全体をひとまとめにする方法は、簡単のようだが、一番まずいやりかたであることはいうまでもない。というのは、各人の所要カロリー数は、年齢によって大きな差があって、最大と最少では、おそらく倍以上も違うであろう。全校生徒をこみにして、ひとつの母集団となると、その中での均一性ははなはだ悪く、当然推定精度は落ちることになる。それに全校をこみにした母集団から六○人をとり、平均値を求めて、そのデータを根拠として給食カロリー数をきめるとすれば、一年生はとても食べ切れず、余ってしかたがないだろうし、六年生は誰も腹ペコということになり、過不足なしの生徒数は、全体のごく一部分にしか相当しない。つまりデータの有用性ははなはだ低い。

 

 この場合、注意しなければならないことは、平均値の推定の精度は、サンプルの人数を増せば、計算上ではいくらでも改善できる。だがその結論の有用性は、数値の精度とは関係ないということである。

 

 もちろんこのような極端なやりかたは、常識的にみてもおかしいから誰もしない。普通なら、一年生、二年生といった具合に、学年別のグループに分け、カロリーの要求量の大体似ている生徒をひとまとめにして、六つの母集団をつくり、それから一○名ずつのサンプルをとるであろう。このようにすれば、母集団の均一性が、先の場合にくらべると断然よくなっているから、推定の精度が飛躍的に改善される。そして、その結果の有用性ははるかによくなって、各学年とも、過不足はそれほどなくなるであろう。しかもこの場合の手間は、サンプルをとるときに少し違うだけで、大差はない。

 

 このように述べると、それは当り前のことであって、ここでくどくどと述べるまでもないことと考える読者があるかも知れない。しかし、このような均一化の操作を行なわないで、とにかくデータを集め、そしてまとめられたデータが案外あるのである。しかもそれらに多少、統計用語による解説でもつけてあると、反ばくする余地のない事実として、押しつけられるというはめに陥る。しかしそのようなデータが、うまくあてはまらないという事実は、やがてわかってくるから、結局は数字の魔術さ、という一言で片づけられることにもなりかねない。

 

  


読めばわかる調査方法の原理

 

二、牛乳と学童給食②

 

 しかしながら、われわれが調査をするのは、その対象がどのような性質のものの集まりかを知らないから行なうのであって、いまの話は、どうも順序が逆のような気がすると思われるかも知れない。だがここでいっていることは、調べようとする対象の集まり(母集団という)がなるべく似たものの集まりであればあるほど、同じサンプル個数に対して、精度のよい推定ができるということなのである。だから、何かを調べようとするときには、まずこれらをなるべく特性の似たもの同士のグループに分類しておいて、そのおのおののグループからサンプルをとったほうが、これらをこみにした状態でとるよりも、多くの場合誤差の小さな、よい調査を行なうことができるのである。このように、なるべく均一のグループにわける操作が、層別(Stratification)または群分け(Grouping)といわれる方法である。

 

 このようにいえば、もっともらしいが、実は誰でもが経験的には行なっているやりかたである。たとえば、ある品物の小売店の売れ行きをみようとするとき、デパートのような大きな店も、場末の小さな店も、こみにしてサンプルをとることはしない。おそらく店の大小とか、客種、場所柄などによって、別々のサンプルをとり、それぞれについて報告をまとめるのが普通である。それは、売れかたの傾向が提灯と釣鐘ほどにも違う店をいっしょくたにするのでは、おかしなことが起こるからである。

 

 この種の層別は、単に全体の一部しか調べないということによる誤差を、小さくするという目的のために、有用であるということも確かであるが、販売では、次に述べるような、いまひとつの重大な目的のためにも、層別は欠くべからざるものである。最近の調査技術の普及によって、大抵のデータはいま述べた精度改善の目的で、層別をして、サンプルをとっているが、それよりも売るために、層別はもっと積極的な意味がある。このことについての注意を喚起したいのである。そしてこの層別の上手、下手が、直接調査の成否を決定するものであると断言することができる。

 

 

 


読めばわかる調査方法の原理

 

二、牛乳と学童給食①

 

 妙な表題だが、一番わかりやすいたとえ話である。

 

 わが国で生産される牛乳は、その多くが加工され調整される。牛乳はその質が問題になるので、検査され格付けが行なわれる。

 

 さてこのような牛乳の等級を調べるには、しぼった牛乳から、少量のサンプルをとって検査する。ところが、牛乳はしばらくおくと、脂肪と蛋白質とが上下に分かれるので、よくかきまぜて均一にしてからサンプルをとる。ここではかきまぜるということが大事なのである。

 

 よくかきまぜないでとると、場所によってその成分比が違うことになるから、それで合格、不合格をやられたのではたまらない。つまり、そのようなサンプルでは全体を代表したことにはならないからである。

 

 しかし、よくかきまぜておけば、牛乳のどの部分をとっても、均一になっているから、少量のサンプルでも、全体が完全に代表されたと考えても誤りでない。かきまぜるのがいい加減だと、どの部分をとるかによって、結果が多少違うことになるから、判断に偏りが生じることになる。

 

 ところで、牛乳のようなときには、液体だったから、かきまぜて均一化することができたが、電球とか石鹸のように、固体でかきまぜるわけにはいかないときには、問題である。

 

 いま箱の中にたくさん品物が入っていて、サンプルで全体を代表させ推定しようとしたと考える。もし箱の中にピンポンの球のように、どれをみても瓜二つというか、まったく同じものばかり入っていたと仮定する。このときには、サンプルの数はたったひとつでよろしい。ということは、二つとり出しても、三つとっても、どれもまったく同じものばかりだから、ひとつ調べれば十分であって、二つ以上のサンプルは必要ない。

 

 また逆の極端を考える。もし箱の中のものが、全部が全部、まったく違うものだったとする。たとえば、次々ととり出すものがピンポン球あり、石コロあり、ゴルフボールありという具合だとすると、そのときは、中に何が入っているかは、最後の一個まで調べてみない限り、わかるはずがない。このように次々ととり出されるものが、まったく違うものばかりのときは、一部分のサンプルで、全体を代表させるということは、意味がないのである。

 

 

 


読めばわかる調査方法の原理


一、一を聞いて十を知る方法②


 ところで、このような、一部の情報をもととして、全体を推測するというやりかたは、大げさにいえば、人類の歴史が始まって以来のものであろう。というよりも、すべての日常生活は、一部についての経験を全体におし広め、それを判断の基準とするというやりかたによって、行なわれていると考えてよいであろう。井の中の蛙とか、一を聞いて十を知るとかいった言葉や、木の株に当たって死んだ兎を待ちぼうけする話も、一部の経験をもととする推測の再現性のよし悪しについての物語といえる。


 ところが、一部の知識を、全体についても同じように、おし広めても差支えないといえるかどうかについての、一般的な保証はないのである。それはいくつかの条件を満たす場合のみについても、いえることである。


 このような推測という仕事は、これまでほとんどが経験的に、各個人の能力による判断をもととして行なわれてきたが、最近の標本調査の理論は、これに科学的、客観的な根拠を与えてくれた。以下その重要な原理を解説してみよう。


 というと、いかにも難解なもののように聞えるが、これらは実は、はなはだ常識的なものであって、われわれの日常経験をもととして、容易に理解できるものである。最近販売の分野の他にも、経営全般にわたり、統計的方法がもち込まれるため、式をみただけで頭が痛くなるということで、事務系の人々を悩ましているようであるが、それは実は最も常識的で、誰にも容易に理解できることなのである。そして今後の話をすすめる上にも、この原理をやはり一応は知っていただかなければ具合が悪い。

 これまでたびたび申したように、販売のための判断も、知恵も、それを使いこなす上に、統計的な考えかたがどうしても入る。


 で、これを知らないで説明するのは、ルールを知らないで野球見物をするようなものであるから、次のいくつかの原理は理解していただきたい。しかし、心配ご無用、常に最も簡単なものが真理である。いくら説明を聞いても、ふにおちないようなものは、どこかにおかしいところがあるからである。 


  


読めばわかる調査方法の原理


一、一を聞いて十を知る方法①


 現代は総評論家の時代だそうである。電車が衝突する、火事がある、金を使い込む、といった具合に、とにかく何か耳をそばだてる事件があると、必ず誰々の意見というのがニュースの但し書としてついている。なかなかうるさいことである。昔の新聞なら、記者諸君がみずからの手で筆誅を加えるところでも、現代はすべてが民主主義の世の中、世論の名のもとにおいて批評するのが、一番もっともらしく聞える。


 この場合、それぞれの事件について世論調査ができれば、もちろんそれに越したことはないが、これには手間も金も、かなりの用意がいる。それに第一、ニュースとしての劇的効果を期待するためには、時間がかかると間尺に合わない。それで真夜中であろうが、入院中であろうが、とりあえず世論の代表として、いわゆる識者先生を追いかけることになる。また場合によっては、直接街頭に出かけて、行きずりの人々の意見を求めることもある。


 だがしかし、このようなことで、本当の世論がわかるものであろうか。先生方のときには、むしろ批評にウエートがかかっているから、それは世論を代表していなくてもよいと考えることもできるが、やはりそれでも、大部分の読者を納得させるものでなくてはなるまい。でなければ、その新聞は、やがて、それこそ世論の反撃を食って売れ行きが怪しくなるであろう。だからこのような先生には、一応世間の人々の考える平均の答を与える人々を選択することになる。 


  


データ活用にはこんな方法がある


九、日頃埋もれていた情報が得られる「市場の断層」②


 販売促進のための売出しがあれば、その始まったときの効果は、誰もが注意するが、これが終わったとき、需要がどのようになったとか、これまで出ていた旧製品がなくなったときの効果なども断層である。しかし、そこまで追跡している会社は少ない。それはおそらく、これらの影響する効果が発売のスタートのときよりも、小さいことが多いためであろう。それと手間とのかねあいで、無視されることになったのかも知れないが、あとのデータも貴重となることが珍しくないのである。


 このようなデータも、ただとるだけではもちろんだめであって、それをどのように当社として利用するかが問題である。そしてまた、その利用のほうから断層を調べるとすると、調べる内容も変わってくる。


 ある自動車メーカーにおいて、他社が新型車を設計し、近く出すだろうということが予想された。そこで、この会社の販売陣はいろいろなことを調べ始めていた。聞いてみると、その車の性能はどのくらいだろうとか、お客の間の評判、価格は?などが中心となっていて、サッパリ売るための話がない。この計画を聞くとなるほどもっともであるが、私のいいたいことは、もっと大切なものが欠けてはいませんか、ということである。


 というのは、その新車が出たからといって、自社の車の設計を大幅に変えることはどうせ間に合わない。それにわれわれとしては、先方の車を売るのではないから、その性能や価格をこまかく調べるより前に、それに対応する手段を考えるほうが先である。たとえば、現在の車を少し改造するか、売りかたを変えるか、また向こうの車に沸いた人気をこちらにふりむける手を打つとか、とにかくなんらかの方法で、わが社の販売に対する影響を最小限に食い止め、さらにできれば、その人気に便乗して、あわよくばこちらの車をもっと売るために、どうしたらよいかが問題なのである。その対策をきめるためには、この断層はある意味で、実によいチャンスである。というのは、向こうもいろいろと脳味噌をしぼっているに違いないから、その知恵の限界もわかるし、その手の有効さもわかる。もしそのうちにうまい手があれば、こちらから真似をするか、先を越して打ってもよいし、しかもその反応はいますぐわかる。というわけで、これを大いに利用することを考えることになった。


  


データ活用にはこんな方法がある


九、日頃埋もれていた情報が得られる「市場の断層」①


 ここでいう市場の断層とは、いまあげたような値下げとか、売出しとかはもちろん、広告が行なわれたときとか、誰かが死んだときとか、そのほか人為的なものでなくても、台風、大火災のような事件があったとか、とにかくなんらかの形で、市場に対して影響をおよぼしたと考えられる場合のすべてである。


 これらの事件があったということは、市場で大きな実験が行なわれたことに相当する。そして、このような断層の生じたときは、時を失せず、あらゆる手段をつくして、その前後の変化を調べよ!ということである。


 たとえば、大地の中の地層が、どのようになっているかを調べるには、普段であるなら何かの方法で穴でも掘ってみなければ、表面からこれを推測するわけにはいかない。しかし、大雨とか、地震などによって、地すべりを生じた直後にいけば、ほとんどなんらの手をかけることなく、この内容を知ることができるであろう。


 しかし、それも日数がたってから行なったのでは、木や草が生えたり、その他の原因のために、情報は失われてしまう。市場における断層についてもまた同じであって、各社の市場に対する活動が、平衡状態に達しているときには、それについていろいろなデータをとってみても、多くのファクターがからみ合ってしまっていて、ときほぐすことははなはだ困難である。


 たとえ無理押しをしてみても、欲しいだけの情報を得ることは容易ではない。ところが、市場で何かの変動が起こると、日頃わからなかった問題が、たちどころに知れる。それは個人についても、国家についても、何か突然事故があったとき、その性格がむき出しになることと、まったく同じことである。だが、これはいつ突発するかわからないことが多いから、年中網を張っておけということである。


 もちろんこのようにいっても、断層を調べることは、これまでにも、おそらく誰もが経験的にやっているに違いない。いま述べたように、他社が新製品を出したときとか、価格を改定したときはもちろんのこと、多少でもこの道に通じている人なら、相手会社の人事に異動があったとか、そのほか何か変わったことがあれば、必ずその影響を調べていたであろう。だがここでいっていることは、それをより組織的に、自社の行動と結びつけて徹底的にやれ、ということなのである。


  


データ活用にはこんな方法がある


八、市場調査には継続的データの収集が不可欠②


 このように説けば、いかにも当り前のように聞えるかも知れないが、ここで強調したいことは、市場調査はときどき思いついたときに実施しても、手間のかかる割合に、あまり有効でなく、これまでの経験に、多少毛の生えたくらいのことしかできないことになる、ということをいっているのである。


 このような継続的調査の手が、売上げについてとられていれば、新聞に出したたったひとつの小さな広告のようなものでも、この効果が、案外調査の網に引っかかって、あがってくるものなのであって、それは実におどろくほどのものである。この種の調査を行なっていればよくわかることであるが、消費者、とくにそのうちでも一般大衆といわれる人々は、実に正直なものであって、日常われわれが打つ手に実に敏感に応じてくれるし、またそれだけに、逆の場合の反響もいちじるしい。さらに相手が官庁や大口消費者のようなときには、売上げだけですぐ利用できる情報をおさえることは、ちょっとむずかしこともあるが、これと相関の高いかわりの特性を用いることにより、普通予想されるよりも、はるかに簡単にひとつひとつの手の効果が、測定できるものである。


 また、継続的調査において、とくに重要なのは、こちらの競争会社に関する問題である。すなわち、これは自社についてではないから、相手の打つ手の予測はなかなか困難である。


 したがって、その手の効果測定も、これが実行されてから、あわてて調べるのでは、調べる誤差は非常に大きなものとなる。このような場合には、相手の手がスパイできない限り、常に網を回らせておくより方法がない。そして、そのような準備ができてさえいれば、かなり有用な情報を求めることが、それほどの苦労なしに行なうことができる。


 しかもそれは、もし相手の会社が、思いつき的な調査によって何かを調べたとしても、おそらくそれより、はるかに精度のよいものとなるであろう。読者諸兄の所属される業界において、もし他社がこのような調査を行なっているとしたら、相手会社のほうが自社よりも、売出しとか値下げ、その他についての効果をよりよく知っている恐れが多分にある。


 敵を知り己を知れば、百戦危うからずという言葉もあるが、この問題について、案外世の関心が薄いようであるので、とくに注意をうながしたい。


 しかしながら、このように、他社の効果を十分に測定しうるためには、自社についての調査よりも、さらに巧妙な計画が必要であって、明日からでもできるというものではない。このような場合に、すぐはじめて、案外効果のあることは市場の断層を利用することである。


  


データ活用にはこんな方法がある


八、市場調査には継続的データの収集が不可欠①


 さて次は、継続的調査の問題である。市場調査とは、いまひとつの立場から考えてみると、予測の問題である。ところで予測が当たるための前提条件を考えてみると、それは、時間の流れをパラメータとして、その先のほうを当てることであるから、流れている時間の中の一カ所だけを調べてみても、原理的にみて当たるわけがない。そのためには時間に沿って、継続的なデータをもっている必要がある。このようなことからも、市場調査は、もし本格的に役に立たせるためにやるとしたら、会社がその営業活動を停止するまでは、決して中絶することのできないはずのものなのである。そして、前にも述べたように、いくらよく計画されて、とられたデータであっ

ても、これを途中で中絶し、放置しておけば、そのデータはそこから腐敗していく。


 この場合、予測のために継続的調査がいるといっても、それは同じことを繰り返せばよいといっているわけではない。その時々により、現在必要としているアクションと、過去のデータの関連において、最も適したデータのとりかたを設計して、実施し蓄積していくことである。


 ところで、われわれがデータをとって、これから方法をきめるということは、今日とった要因についての効果はおそらく明日も、明後日も、また場合によっては、一カ月後も大体同じような関係が成立しているであろうということを、経験的に知っているからである。そして、実際には、ただ一回しかとられなかったデータであっても、その計画と結果の解析に、過去の経験とか知識とかを十分入れてあれば、これらの基礎資料が過去のデータの蓄積によって正しくもたらされ、解釈されている限り、かなりよい予想を示すことになることは間違いない。これも一種の継続的調査による結論といって、いっこうに差支えないであろう。そして、データの再現性が、このような形においてのみ確保されているのであるから、これをさらに積極的に、時間についても計画的に、適切に組み合わせて調べれば、他の因子におけると同様、さらに効率のよい、誤差の小さい予測が可能となるということである。


 ところで、市場における現象は、みかけ上、時間の影響がすこぶる大きく、変転きわまりないものであって、工場のように、今日最もよかった作業方法が、来年も、また再来年も、通用するといったことは少ないと考えるのが普通である。そして、このことが、販売の面においては、いつまでも個人の能力や、熟練が、幅をきかした大きな原因であった。しかし、名人や上手が成立するためには、その現象に、どこか繰り返しがあるからこそ可能であることは、前にも述べた通りである。とはいえ、その繰り返しを名人が体得しえたことは、いまひとつの条件がある。それは常に現場と接触を保っているということであって、それは、別ないいかたをすれば、継続的なデータの供給を受けているということに相当する。


 どんな名人であっても、海外へしばらく出かけていたとか、休んでいたとか、何かの原因で、現場との接触に空白を生ずると、その回復にはかなり優秀であるとされた人物でも、非常な努力と困難とが要求されるものであって、はた目でみるほど容易ではない。このことは、多くの実例が示している。


  


データ活用にはこんな方法がある


七、調査計画は行動に結びつかなければならない②


 ものの本には、市場価格の最適値を常につかんでおく必要がある。それが調査の大きなテーマのひとつである、などと書いてある。それには違いないにしても、これがわかったとして、一体具体的行動として、どう利用できるかは問題である。価格などは、会社の信用上そうやたらに変えるわけにはいかない。たとえかなり合理的な、もっともらしい数字が出ても、それはわかったというだけで、これに対する処置が年中できるかどうかは別のことである。なかには、その結果を将来のための参考にしたいなどという人があるかも知れないが、将来変える時期には、その時に新しく調べたほうが、古くて腐りかけたデータを利用するよりも、必ずよい結果が得られるものである。


 このようないいかたは、多少乱暴に聞こえるかも知れない。事実、価格に関するデータを年中もっていることは、もたないよりはよいかも知れないが、問題はそれを手に入れるために払われる労力にくらべて、同じような結果が、もっと別な方法で容易に獲得できるはずではないかということなのである。


 先にあげた蛍光灯の色調査なども、このよい例である。調べた結果、あの場合どのような答が出るかの見当は、少し色のことをかじった人になら、技術常識でわかることである(事実その結果は色温六○○○度、つまり太陽光と同じ色ということになっている。)そして、その答が出たとき、その会社としてどうするかも、自社の技術力からみると、さらに範囲は制限されたはずである。


 となると、そのような心理学的調査や何かをやるよりは、販売実験のほうがよいということは、その場で結論が出たはずである。それに価格の問題でもからませれば、もっと簡単となって、あるいは調査などやること自体が無駄だということになったかも知れない。 だがこの話は、他人事ではない。私どもの目にふれる調査の多くが、調べてから考えるというやりかたであることは、まことに困った風潮である。具体的に現実に実行できる行動と結びついた販売方策決定のための手段として、調査を計画すること、これがそのコツである。


  


データ活用にはこんな方法がある


七、調査計画は行動に結びつかなければならない①


 ここでひとつの経験的事実として、必ず役に立つ計画のたてかたを伝授しよう。これまでにたびたび述べたように、多くの人手と金とをかけていろいろなデータをとりながら、結局わかったというだけで、何も役に立たなかった調査という例が実に多い。


 このような労力と資材の浪費をさけるためには、計画が重要だということを前に述べたが、出た結果を必ず役に立たせる方法がひとつある。それは次のようにやればよい。


 われわれが何か調べるのは、結果を何かに使う目的があってのはずである。ということは、そのデータが出たら、結果によってどのような行動にそれを反映するか、調査実施前に大体の心づもりがあるはずである。調べてから、その結果をみて考えようというのも、ひとつの態度ではあるが、このような方法はあまりよい方法でないことは、先刻ご承知の通りである。


 ところで、ある計画をたてたとすると、それから得られる結果は、無数の場合が出てくるはずはなく、あらかじめ大体どうなるかは予想されるであろう。したがって、計画をたてるときには、それから出てくる結果が、どうなるかをできるだけ考えてみる。そして、次には、そのような結果のうち、Aということになったとしたら、われわれの行動としてどのようにするか、Bという答が出たらどうするかをよく考えてみる。その上でA、Bどちらの結果になったかが、それではっきり区別されうるような計画であるか、どうかを検討してみる。このようにして、計画されたものは必ず役に立つ。なぜなら、あらかじめ、どのような結果が出ても、それに対する対応がきめられているわけだから、どの答になっても、必ず役に立つからである。


 よくあることであるが、このようによく考えてみると、調査の結果、Aという答になっても、Bという答になっても、どちらにころんでも、われわれの取りうる行動は結局同じだというようなときには、はじめから調べないほうがよろしい。もっと他につかみたいことがたくさんあるはずである。


 このように述べると、どうなるかわからないから調べるのだ、といわれるむきがあるであろうが、そのときにも、その結果、生産会議を開くとか、取り止める(これもひとつの行動である)とかいった具合に、そのデータの取り扱いについて、なんらかの予想があるはずであるから、そのためにちょうどふさわしい計画というものは、つくることができるはずである。


 このようにして計画された結果は、必ず役に立つとともに、非常にソツのないものとなる。よく、何か調べようとすると、それではついでだから、あれも、これもと、あとから項目の追加をする人がいる。しかし、ひとつの項目について最良の調査方法は、一般にはひとつしかないから、余計なものを入れると、結局アブハチとらずの結果となるものである。


 このように、会社として可能な手の選択という立場から、調査を計画してみるとわかることだが、ある時期に、その会社が市場に打ちうる手、または行動というものは、そうやたらにあるものではない。そのうちでも選択の判断が、調査によらなければつかないというものは、さらに少なく、調査の対象ははなはだ局限されるのが普通である。このような目でみると、現在多くの会社が行なっている、種々の調査のかなりのものは、学生にアルバイトのタネの提供としてなら別であるが、企業の目的のためには無駄なものと断言してよいであろう。


  


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六、販売に結びつく結果を得るための調査計画②


 ある商品の包装の色のよし悪しを調べようというときに、その色がなかなかよいとほめられても、それがただちに購買意欲になるとは限らない。現実に売ってみて、お客が金を払って買ってくれてはじめて、それが真実であったかどうかが確認されるのである。


 近頃の電話機は黒一色ではなく、いろいろな鮮やかな色彩をつけたもの形の変わったものが市場に出ているが、あの色物電話機がはじめて市場に出たとき、その色のどれがよいかについて、いろいろな嗜好調査が行なわれたことがある。その時の結果としては、黒色は相手にされず、ベージュ色の濃いものが圧倒的に第一位であった。


 ところが、現実に任意の色の電話機が自由に購入できるようになったとき、一番よく売れたのは、実は黒であった。ついで青白色系統のものが出ている。この事実からすると、もしこの調査の計画が、どのような色を生産すべきかを決定するために行なわれたとしたら、大きな失敗であったというべきであろう。


 ほめる、もしくは、よいと思うものと、現実にフトコロから金を出して買うものとの間に、非常な差のあることが案外多いことは、販売について日夜苦労している人々の誰でもが経験しているところであるが、これを確かめるのに、最も信頼できる方法は、やはり現実に物を買わせてみることであろう。このような立場から「試験販売」のようなものは、市場調査でもっと重要な地歩を占めてよいはずである。物によっては、試験販売をやると意匠を盗まれる。そのため、これは当社では実際にはやれないと主張されるむきがあるかも知れない。その時には別なもっとうまい手がある。それはあとで紹介するつもりである。


 いまあげた色の決定のような問題は、かなり具体的なものであって、調査結果の再現性も断然よいように思われるが、それでも、いま述べたような誤りが珍しくない。そして、このようなミスをとりのぞくには計画のときに注意するより方法がない。調べてから、その答をどのように解釈するかというやりかたは、さらに誤りを重ねるチャンスを増大するだけである。 


データ活用にはこんな方法がある


六、販売に結びつく結果を得るための調査計画①


 これまでに述べたことからもわかるように、市場について、一体何を調べるかということは、販売政策と結びついた具体的な問題に対して、直接関連した解答を与えるように計画する必要がある。それがよく考えられ計画されている場合には、一見チャチで古めかしくみえる質問票でも、案外有用なことがある。近頃では調査も大量生産主義になって、質問票が返ってくると、大勢のアルバイトか何かによる人海戦術で、一気にデータを集計するやりかたが流行しているが、同じ資料でもこれをその道のエキスパートが丹念にみていくと、思わぬ情報を得ることも少なくないのである。つまり、われわれがこのような質問票から受け取る情報は、後にも述べるように、字数の多い少ないには必ずしも関係しない。むしろ問題はその質なのである。つまり計画するほうからいえば、何を調べるかということになる。その質さえうまいものを選べば、実に簡単に、われわれにとって必要にして十分な情報を求めることができる。


 市場で各社の品物がどれだけ売れているか、その占拠率を知ることは、どの会社の販売担当者も、最も知りたいところであろう。これについては末端の小売店とか、最終需要家の訪問調査によって、求めるやりかたがよく行なわれているが、それは金ばかりかかって、あまり役に立たない調査の代表のようなものになりがちである。売上げを知るには、その商品の流通過程をよく知ると、調べる個所はいくらでもある。工場で消費する資材、たとえば包装用ダンボール箱や容器、原材料からはじまって、その会社の販売台帳の数字、トラックや貨車の利用状況、セールスマンの動きのようなものから、薬や口紅のようなときは、最終消費者が使って捨てる容器に至るまで、最も金のかからない、そして、ドンピシャリでわかるものが、それぞれの商品について必ず存在する。


 テレビ放送の有用性についても、それが売上げの増大をねらっているなら、視聴率とか、それによる視聴者の知名度などよりも、より直接的な販売量の変化を調べるほうが、あらゆる点で優れている。そのように述べると、放送が販売量にひびくかどうかは、それ以外のもっと多くのファクターの効果がたくさんあるから、それらにマスクされて、すぐにはわからないのではないか、と考えるむきがあるかも知れないが、先ほどもあげた例のように、ちょっとした工夫さえしておけば、意外に簡単にその効果を調べることが可能なのである。


 そして、このようなものを、効率よくつかまえるための科学が、後に紹介する「実験計画法」である。このようにいっても、まだ信じ切れないかたも多いと思われるが、これまで他の方法で効果をみようとしたポスター、新聞などの広告効果も、案外簡単に売上げの数字で推定することが事実可能なのである。そして、その数字こそ、われわれのねらいそのものであるから、別の数字から、うまくいったらしいと判断するよりも、よほど確実である。 


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五、販売に役立つ情報獲得のために③


 一方、名が売れすぎたのはよいが、それが会社の命取りになりかけたという話もある。テレビの時間を帯で買い、全国に公開録音をもち回るといった派手な方法で、断然名を売ったある食品会社は、一時は多少売れたが、半年もたたないうちにだめになった。というのは、その他の売れ行きを支配する要因、つまり品質がそれにともなわなかったからである。そのため、あの会社のものは味がまずいという評判を一時に広めて逆効果となった。


 さて、ここでテレビの例をあげたが、見かけ上、新しい統計理論や手法によってもたらされたとみられるデータであっても、それが直ちに販売の手段として有効性を示す物差しとして、そのまま使えるかどうかは、まったく別のことであることは、よく注意する必要がある。視聴者の反応の大体の見当などは、そんな手間をかけなくても、ほとんどタダで調べる方法も実はないではない。しかし、それよりもいまあげたミシンのような例では、売れることについては品質とか価格、商品価値などの販売政策上の問題から、市場での需要など、あらゆる問題が複雑にからみ合っているものであって、それらの要因効果のひとつとして視聴率をみるときには、コンマ以下のパーセントの調査精度などは、まったくナンセンスである。このようなことを十分考慮に入れないデータは、いかに外見上、近代的で数学的な衣をまとっていても、前にあげた古めかしい質問票にも劣る情報内容となるであろう。


 というよりも、このような統計的処理のほどこしてあることが、かえって科学的迷信の原因となって、結果としてヤマカンよりも危険な事態に追い込むことすらあるのである。ここのところ、わが国で盛んに行なわれる世論調査や実態調査の中にも、この言葉をそのまま呈上すべきものが実に多いことは、すでにお気づきであろう。 


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五、販売に役立つ情報獲得のために②


 また逆に、最近の新しい「標本抽出理論」をとり入れた調査によって、いろいろともっともらしいデータをとっておきながら、結果的にみて販売実績が上昇したとは、とても思えないとか、得た数値の信頼限界とか危険率とかいった数字が出ているが、それで一体どれだけ調査経費をペイしたか、さっぱりわからないという場合も、珍しくないのである。


 テレビ放送による宣伝活動は、広告の媒体として新しい可能性を与えてくれ、その有効なことは誰も疑わない。そしてどの放送局でも、その効果を正しくつかむために、視聴率やその他の調査に多くの経費と人手とをかけて、それが今日では当然のことのようになっている。ある放送局では、その結果、視聴率がコンマ数パーセントでも上がって出ると、全員に大入袋が出るといった、ある意味ではアジのある、しかし数字の面だけからみれば、ぜんぜん無意味なことをやっているところもあるそうである。しかし何はともあれ、視聴率がよいということは、スポンサーにとっても、まずはメデタシメデタシというふうについ思い込みやすいが、それは少し早まった判断であることはいうまでもない。


 スポンサーとしては、せっかく出す電波だから、大勢の人にみてもらいたいのは人情であろう。しかし、ただ楽しんでいただくだけが目的でないことは、もちろんである。だから、この視聴率が売上げの面に少しでも反映できないものであるとしたら、いくら人気番組をもったとしても、それだけで手ばなしに喜ぶわけにはいかない。それが逆に、マイナスとなる原因にならないとはいえないからである。


 いまあるミシンの商標を宣伝したとする。たしかにその提供番組はよくみられ、また名前も大衆がよく憶えてくれたとする。しかしそれで売れるという保証にはならない。すでにミシンをもっている人は、よほどのことのない限り、二台も買ってくれるわけではないだろう。また名称も憶えて、購入する気にもなってくれて、デパートへ行ったとしても、売場で他社が派遣した店員にうまく口説かれて、まんまと他社のを買わされるかも知れない。また会社の購買組合などで、ローンがきくとなると、やはり他社のを買うことになることもある。つまりこの場合、ミシンを買う気は起こさせたが、自社の売上げにつながるかどうかは別のことであったということになる。 


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五、販売に役立つ情報獲得のために①


 近頃は、市場における競争が激しくなったためか、何か品物を買うと、お客の好みや、意見を求めるための調査票が入っていることが多い。その中には、コンピュータで読みとるコードまで入った手の込んだものから、単なる、ご意見承り用紙といった程度のものまで、いろいろなものが使われている。これをみて、一体どのようなやりかたで数字をまとめ、利用しているかを想像してみると、なかなか興味のつきないものがある。


 ところで、このような調査票をつくり、ひとつひとつの品物に入れ、また回答を分類するなどには、かなりの手間や経費が要るのであるが、これをどのように利用しているかを聞いてみても、うわべの答は別として、これに相当した効果を十分得ている場合は実にまれである。なかには、いや回答の中味も大事には違いないが、これによって消費者に与える好印象だけでも、十分ペイしている、と答える人もないではないが、もし、それがねらっている効果の主なものならば、もっとよい、巧みな方法が別にいくらでもあるはずである。


 しかしながら、私はこのような方法が、すべて無駄であると主張しているわけでは、もちろんない。というのは、このように古くから行なわれていて、現在の進歩した他の調査方法からみれば、幼稚ともみられるような方法によっても、かなり適切な判断を下し、うまく利用している例がないとはいえないからである。


 この他にも、やりかたとねらいは多少異なるが、特定の人々を会社側がとくに選んで出すアンケート形式のものも、かなり流行している。これはたとえば、社会的に名の知れた人々とか、特定の学校の卒業生、ある地区の人々に対して、いろいろな問題についての意見を求め、これを判断の資料とするやりかたである。さらに形式を変えて、この種の人々を招待して行なわれる、ご意見を承わる会といった催しも、これと同じグループに入れて取り扱うことができるであろう。このような方法は、新しい標本抽出の考えかたからすれば、いろいろと問題があるかも知れないが、かなり利用されているところをみると、その有用性がまったくないといって、一概に捨て去るのも、別な誤りをおかすことになるかも知れない。



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四、販売のための調査では何が大切か③


 しかし販売のため調査は、そのデータによってデータを入手しなかったときよりも、もっとうまい手が打てたとか、より安全な方法をとることができたということによって、価値が認められるのである。だから話半分でもきわめて有用な情報がありうるのである。


 したがって、販売のための調査では推定値の誤差の大きい小さいは第二義的なものであって、そのデータによってどのような手が打たれ、しかも結果が成功に結びつくことができたかどうかが問題である。しかもこの場合、調査にかけた費用はもちろん、それから得た成果によって、十分ペイするものでなくてはならない。一般的にいって、調査にかけることのできる費用はせいぜいが売上げの一パーセント以下だろう。


 そうなると、かりに100万円調査費用をかけたとしたら、少なくともそれによって、一億円以上の売上げ増にならなくては引き合わない。


 このように考えると、全国で何千人ものサンプルをとって調べるなどということは、よくよくのことでない限りできるものではない。それに実際に調べてみると、十分に考えて調査計画をたてたつもりでも、意外なところに穴があって、計画者自身、半信半疑の答を出さざるをえないことさえある。


 だから、調査のコツは、できるだけ小さな規模のものをタイムリーに本当に必要なことだけについて調べ、それを繰り返していくことである。大々的な調査は、金ばかり食って、しかも答の出るのに時間がかかるため、出た答は関係者なら誰でも気がついてしまっていたことばかりだった、ということになりかねないのである。

 


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四、販売のための調査では何が大切か②


 ところで、日本がアメリカと戦争を開始した真珠湾攻撃の場合を考えてみよう。日本海軍の飛行機が攻撃する計画を手に入れたスパイがいたとして、この情報を送ったところが、何かの間違いで、太平洋の真ん中の孤島の原住民に渡ったとする。この場合、情報量は大きいだろうが、ほとんど価値はない。連絡の方法もないし、いよいよ始まるか!とビックリするだけである。


 ところがこれが、当時のアメリカ大統領の手に入ったとしたら俄然価値が出てくる。このことでもわかるように、情報の価値は伝える相手によって、著しく違うことになる。


 いまひとつはタイミングである。この情報が攻撃を開始する一分前に大統領に伝わったのでは価値がない。手の打ちようがないからである。それが一時間前だと、断然価値が出てくる。前の日にでも渡っていたら、歴史は変わったかもしれない。


 情報の価値がそれを渡す相手により、またタイミングによって、著しく違ってくる理由は、もう明らかだろう。情報の価値はそれ自体にあるのではない。これをどのように使うかで決まるのである。いくら貴重なはずの情報でも、これを使いこなすことのできない人に渡したのでは、単なる紙切れに過ぎない。「猫に小判」「豚に真珠」とは、まさにこのことである。


 この考え方はデータの誤差についても当てはまる。データは正確であればあるほど、価値があるとは限らない。確からしさが50%しかない情報でも、タイミングよく入手できると非常に役立つ。


 どこかで競争メーカーが、新製品を出すらしいという情報を手に入れた。しかし、この情報は少し怪しいからもっと確かめてから、報告しようということで調べ、100%確実になったということでトップに報告した時は、もはや手遅れになったという笑えない話がある。


 この点が、真理の探究を目的とする学問的調査との本質的な違いである。学問的調査は、未知の世界への探究である。だから、誰も知らなかったことを発見したということ自体に価値がある。



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四、販売のための調査では何が大切か①


 ここで、情報理論からもたらされた、いくつかの概念を理解しておくと、調査を計画するために便利であるので、わかりやすく説明してみるとしよう。情報理論では、情報の量をどのように定義するかについて、次のようなことを考えた。


 天気予報を例にとってみる。日本の梅雨の季節には、毎日じめじめ雨が降っていやなものだが、そのような時期に予報が明日も雨だといっても、またかと思うだけである。ところが、真夏に毎日、日照りが続き水不足で大騒ぎをしている時、予報が明日は雨といったとすると、これはニュースになるだろう。


 同じ天気予報の文句、つまり「明日は雨」というものでも、それを聞いた時の状態によって、それから受ける情報の量は著しく違うことがわかる。


 その理由は、次のようなことである。毎日雨が続いている時は、どうせ明日も雨だと皆が思っている。ところが毎日晴れているときに、雨だと聞いたということは、その予想が大幅に変わったということである。


 そこで情報理論では次のように情報理論を定義している。


 情報を入手した後の予想/情報を入手する前の予想=情報量


 このことでもわかるように、あるデータなり報告書に含まれている情報の量は、そのページ数とか文字の数とは比例しない。

つまり、そこにどれだけ知らなかったことが含まれているかが問題なのである。


 したがって調査を計画する時は、わかっていることと、わからないことは、何かをよく知っておく必要がある。


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三、意識を常に評価の尺度とすること


 これまでの話題を整理すると、ここで問題を発見することのコツが、次第に明らかになったはずである。それは目的を徹底的に煮詰めておくことである。目的がいつも頭の中にあり、目の前にチラついていると、見るもの聞くものすべて、そこから評価されることになる。


 つまり目的を探求しておくということは、どういう結果になったら成功したと考えるか、または失敗したと判定されるかといった評価の尺度を持つということである。それとともに、目的からわれわれの使う言葉の意味が明確化され、共通の言葉が生まれる。広告の効果の判定は難しいという説をよく聞く。確かに、たった一枚のビラがどれくらいの影響を読む人に与えるかといったことを調べるのは大変である。


 だがしかし、ここでその広告を何のために出すかといった目的を明らかにしておけば、効果の測定はそれほど難しいことではない。


 その広告によって、売上げを上げたいというのなら、売上げの変化を調べればよい。イメージをあげたいというのなら、イメージ調査をするのである。しかしここで大切なのは、イメージとは何かということについて、共通の言葉をつくっておくことである。イメージが上がったとはどういうことをいうのか、その評価尺度も、イメージを上げる目的は何かということでよく考え、きめておくことが必要である。


 いやイメージが上がるといっても、そう簡単には定義もできないし、はかるのも難しいという意見も出るだろう。イメージが良くなったと感じるのは、何と比較してか、ということも手掛かりになる。とにかく誰かがそういってくれたとか、何かわれわれの感覚に引っかかるものがあって、はじめてイメージが変わったといえるはずである。だから、ここでしつこいぐらいに、イメージとは何か、またイメージが変わったとかよくなったというのは、何によって判断するのかといったことを、これまでの学問上の定説とか本に書いてあったことは一応無視して、白紙で議論してみるのである。この時大切なことは、話が迷路に入ったら、必ずその目的は何だったんだろうと、原点に引き返してみればよい。


 イメージが良くなったら、皆がそういってくれるからわかるさという意見があったら、皆とは何か?そういうことはなにか?

といった具合に、これまでだと何気なく発言し、また聞き逃がしていた言葉をひとつひとつ丁寧に吟味して、共通の言葉をつくり、評価尺度を探すのである。


 このようなことをしておくと、その中から多くの問題の手がかりがつかめるし、またそれが頭の中に入っていると、何かを見たり聞いたりしたときに、アッこれだ!と新しい発見が生まれるようになる。


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二、データから思わぬ問題点を見つけ出す


 これはある化粧品メーカーでの話。その会社の売上高の予測について、いろいろな方法を試みた結果、全国にいくつかの店をパネル店として選び、そのデータを使うことで非常によく当たるようになった。つまり売上げの予測について、先行的な傾向を示す店をデータから拾い出したのである。


 その誤差は素晴らしく小さく、一年先でせいぜい2%というところまで来た。その予測方法の成功に対して社長から金一封が出たので、皆で銀座へ行って飲むことになった。そして飲むほどに酔うほどに、話が大いに弾んだが、そのうちに妙なことをいう男が出てきた。


 「この予測で誤差が2%というのは、あまりにも当たりすぎる。何かおかしいんじゃないか?」

「当たったから金一封が出たんじゃあないのか」と言っても、

「大体予測なんて当たらない方が世間並みなのに、とにかくおかしい」と頑張る。


 すると別の男が、次のように言い出した。

「それもそうだ、当たりすぎるということは化粧品業界は需要が頭打ちになったということじゃないかな?」


 確かに需要の飽和した時は、予測は実によく当たるものである。たとえば、日本人が一年間にお米を何万トン食べるかといった数字の予測値は、誤差が1%もない。


 考えてみると、日本の女性の顔の面積は一定だ。これをすべて塗ってしまったから、もう頭打ちになったのじゃないか?だから飽和したのだ。これでは喜べない!


 話がここまで来たら、途端に皆からアイデアが出始めた。とにかく面積を増やそうじゃないか。それには年齢的にももっと下と上へもっていこう。いや、さらに倍にふやせる可能性がある。人口の半分は男だぜ。いや海外へと顔の面積を広げればよい。

 このようなことから生まれたのが、男性用化粧品の開発であり、海外作戦の開始だった。


 さてこの場合、予測が当たったということで満足していたら、このような発展はなかっただろう。このグループは当たらなければ、当たらないということから問題点を発見しただろうし、予測が当たったら当たりすぎるということで、次の問題点を発見したのである。


 これと、先の「南の島に靴を売りに行ったセールスマン」の話とを、並べてよく考えてみてほしい。裸足で歩いていても、皆が靴を履いていても、必ず問題点を見つけ出すことができるということが、すべての進歩への手がかりである。


 ここに、同じ市場調査という名前で呼ばれるものでも、学問的立場から行われる真理の探究のためのものと、販売活動のためのそれとの違いがある。つまり知るための調査と、行うための調査との本質的な違いである。



データ活用にはこんな方法がある


一、データを評価するための三つの物差し


 さて、このようにしてデータが集まったとしても、そこから何かをつかむことができるかどうかが問題である。これは別の言葉でいうなら評価能力である。


 評価のためには、当然だが評価のための何かの尺度を持っていること、つまり比較するものをもっていることが、その前提である。くらべる相手としては、何を選んでも良いのだが、最もわかりやすい例をいくつか挙げてみるので、その中から、ヒントをつかんでいただきたい。


 まず比較するものとしてよく使われるのは、過去と比べることである。五月の節句の歌に、「柱の傷はおととしの」という文句があるが、これは一昨年の背の高さとくらべて、ずいぶん背が伸びたということを、再発見するということである。経営の業績を前年同期と比べるといったことも、これと同じやり方であって、そこから問題を発掘するというのが一つの方法である。


 いまひとつは計画と実績との比較である。計画の達成率が何パーセントという方法は、最も一般的である。経営計画は収支を中心として立てられているから、実績が計画を下回ると大問題になる。


 第三の物差しは予測との比較である。これは計画と似ているが、その意味はちょっと違う。計画にはかなり意欲といったものが盛り込まれているから、必ずしも予測とは一致しない。


  さらによく使われるのは、理想値である。化学プラントなどでは、反応に理論式がある。つまり、ここまではいくはずだということで、それに達しなければ、まだレベルアップの可能性があるということになり、さらに改善の努力を続けるわけである。


 いまひとつ、よく使われるのは同類のもの、似たものと比べるというやり方である。女性が電車の中などで同じ洋服の人がいると、慌てて降りてしまうというのもこの類である。同業他社と経営指標を比べるとかいったことも、これである。教育熱心な母親が、子供の教育に熱中する動機づけには、この原理が働いているといっても差支えあるまい。


 この他にも比べる尺度はいろいろあるだろうが、企業はひとつの問題が解決すれば、必ず次の問題が待ち構えている。それを次々と発見しては解決するという会社が、伸びていくのである。


 このように述べると何でもないような気がしたかも知れないが、その基本は何といっても、皆が当たり前だと考えることでも、ハテナ?と疑問を持つ習慣が大切である。



知るための調査と行うための調査


六、「お客様」をハダで感じることが販売の第一歩


 化学調味料にイノシン酸というのがある。昔から使われていたものとしては、グルタミン酸ソーダがあったが、新しいものとしてイノシン酸が登場した。その時ある化学調味料のメーカーの人が二人、私を訪ねてきた。一人は課長だったと記憶するが、開口一番次のような話である。

「イノシン酸という調味料をご存じですか、最近これが開発されて、各社一斉に売り出したのですけれど、予想したほどに売れないで困っています。そこで、どうやったら売れるか、その方法をみつけるために調査をやりたいのですが、どうすればよいでしょうか?」


 そこで、さっそく聞いてみた。

「まずイノシン酸という商品は、誰が買うのですか?」

「ほとんどが家庭の主婦です」

「じゃ主婦がそれを買って一体何に使いますか?」

「それはもちろんお料理に入れますよ」


 この男、当然のことをなぜ聞くんだといった顔である。そこでさらに聞いてみた。

「お料理に入れるというけれど、それでどういうことが起きますか?」


 相手は少しバカにされたという気がしたようだが、次のように答えた。

「それは料理の味がよくなります」

「それじゃ、イノシン酸を入れたときと入れなかったときと、どれくらい味が違いますか。あなたはどれくらい食べてみましたか?それに主婦が使うと盛んにいわれるけれど、何人くらいの主婦の料理を食べてみました?思い出すままで結構ですから数えてごらんなさい」


 ここで相手はグッとつまった。毎日家で食べている妻君の手料理と、おふくろ、それに嫁に行った妹くらいしか、はっきり記憶にない。

「それじゃダメだ。二十日くらいの余裕をあげるから、その間に少なくとも四十人か五十人の主婦の料理の味、それもできたら、イノシン酸を入れたときと入れないときと、どれくらい味が違うか実際に食べ比べてごらんなさい。それから何を調べるか考えようじゃないですか」


 こうやって帰したら十日くらいして二人で飛んできた。「いや大変なことがわかりました」という。十日間に社員の家の夕食どきをねらって、百三十人ばかりの主婦の手料理を食べ比べてみた。すると実においしい料理の奥さんもあれば、よくこんなものでご主人が我慢しているなと思うようなものもあったそうである。ところがその中に七名だが、実にうまくよい味をイノシン酸から引き出している主婦がいた。それはイノシン酸を単独で使うのではなく、すべてが他の調味料を混ぜて使っていたのである。


 現在、一般に売られているイノシン酸は他の調味料と必ず混ぜてある。


 この話のやり取りに注目していただきたい。イノシン酸をお料理に入れることまで聞きただすのは、オーバーのようにもみえるだろうが、〝白紙からスタートせよ〟とは、このことである。化学調味料はすべて主婦が買っているのではない。昔からあるグルタミン酸ソーダは、生産量の三十パーセント近くが函詰とかその他に入れられているという事実もある。


 それにこの話で最も不思議なことがある。化学調味料のメーカーの課長のくせに、自社の製品をお客様がどのような使い方をしていて、それを使った結果、どのような味の料理ができているかを全く知らなかったことである。そのくせ、日本経済の動向はどうなるかといった、天下国家の話については実に詳しいのだから、何か間違っているのではないかと言いたくなる。


 この問題は実に重大である。販売の第一歩は何といってもこのようにして、お客様というものを先入観なしに肌で感じ取ることである。


知るための調査と行うための調査


五、先入観でデータを解釈するのは無意味だ


 ある自転車メーカーが需要減退で経営がおかしくなったとき、その会社の技術部長が頼みに来た。


「ウチの社長はどうも販売について、はなはだ退嬰的(たいえいてき)で困る。なんとかハッパをかけてほしい」


 そこで、さっそく出かけていって対談に及んだのだが、十分もしないうちに、この人はまったくダメな人だなと思ったので話を打ち切り、適当にお茶をにごして帰ってきてしまった。そして、その技術部長に言っておいた。


「気の毒だが、あの社長では何を話しても無駄だ。あのままじゃ君の会社は潰れるよ」


 その理由は次のようなことである。その社長は何を話しても、すぐ話を取って、うんそれは知っているといって、得々と自分の考えを述べるのである。ところが、こちらからみると、何もご存知ないのである。つまり、その人は自分は何でも知っていると思い込んでいる。だから、どんな話をしても耳に入らないのである。自分なりに解釈してわかっている気でいる。第三者に対してさえこの調子だから、社員に対してはもっとひどいのだろう。


 こう説明しておいたら、半年たたないうちにピンチに陥り、その社長はクビになってしまった。この社長は極端な例だが、何かせっかく新しい情報を手に入れているのに、これまでの既成概念や昔の学説でそれを解釈して、つじつまを合わせてしまい、それで解決したと考えている人は意外と多い。というよりも大部分がそうではないかという気持さえする。


 だが大切なことは、データについて論理的なつじつまの合った推理をすることが、調査の目的ではない。度々言っているように理屈はどうであれ、販売という目的を成功させるためにデータを取っているのだから、むしろ昔からの定説や固定的な考え方では、とても説明のつかないような結論の出ることが望ましいのである。


 当初の知識の枠だけで考えるのなら、最初からデータを取らない方がよい。せっかく新しく発見した現象があったのに、「それは要するに、○○のいったナントカと同じですな」と割り切ったような顔をする人がいるが、それは実に気の毒な人である。


 つまりいっぱいの水の入ったコップのようなもので、それ以上入れてやろうと思っても入る余地がないのである。何事にも驚きを感じることができるためには、自分は全く何も知らないという白紙の立場でデータを見ることである。そろばんでいえば〝ご破算で願いましては〟という状態である。電卓なら、置数をクリヤして、すべてをゼロにすることである。ゼロにしておかなければ、新しい数字を入れるわけにはいかないのが計算機である。たとえまったく同じデータであっても、見る人によって、あるいは分析の方法によって、またその時期によって、そこからの結論が多少違ってくるほうが、むしろ当然でなくてはならない。


 白紙でものごとをみて考えるというのは、最も素朴な、人によってはバカにされているのではないか、と思うくらいに素人臭いことから質問を投げかけることである。




知るための調査と行うための調査


四、データを読む能力②


 問題に気づくことの重要性について、いま一つの例をあげよう。


 ある大学病院で手術室の片づけをしていた助手がいた。毎日が、消毒薬と血の匂いの余り有難くない仕事だが、待遇的には比較的めぐまれていた。しかし単調な毎日であった。


 ところが、ある日ガンの疑いで来た患者だったが、頭が見事に禿げ上がった人がいた。手術の結果はガンではなく、元気に退院していったが、頭があまりにも見事にハゲあがっていたために、ふと次のような疑問を持つことになった。


〝ハゲとガンは関係があるのではないか?〟


 それからの毎日は好奇心の連続である。患者が入る。頭を見て記録する。手術の所見を調べる。このようにしてとられたデータからひとつの傾向を発見して学会に発表し、反響を読んだ。


 ここでふと気がついた・・・・というところが大切である。調べるということの次に、何かに気がつくということがつづかなければ、そのデータは役に立たない。それには見た途端に気づくこともあるが、データを整理することによって、はじめて発見できるものもある。そこで調べるということについて、それが役立つための条件が明らかになった。それは、


①問題意識を持っていること、それには目的が明らかになっていることが、前提である。


②何でもしっていることと同時に、何にでも驚きを感じる態度がいる。何を見てもあれは知っていると思うようではだめなのである。これまでの常識なり知識の枠の中だけで、ものごとを理解しようとする自己完結型は何も発見できない。一口でいうなら好奇心の強いこと。


③分析の方法を知っていること、また個々の現象だけではなく、その平均をみるということの意味、そしてデータには誤差があるということなど、分析のイロハを心得ていないとおかしな結論を出しても気がつかない。


④データをもとにしてその背後にある何か?についてイメージを描くことのできる創造能力。


 以上だが、これは一つの生活態度ともいうべきであって、大切なことは、成功なり発見の場数を踏むことである。そして一回でも発見の喜びを感じ取ることができれば、弾みがついてきて、普通の人なら何でもなく見過ごす現象の中から、驚くべきことを発掘することができるようになる。


 ところが世間には自己完結型の人が意外に多いので、いまひとつの話を付け加えておきたい。


知るための調査と行うための調査


四、データを読む能力①


 売りながら調べよというと、何か毎日調査票でも持って歩けという具合に受け取った人がいるかも知れないが、そうではない。耳と目とをよく働かせて観察するということも、また相手との対話を通じて、何かを感じ取ったというものも大切なことである。


 調べるということは、どんどんデータをかき集めればよいというものではない。そこから何かの傾向なり、規則性を発見することがなくては、単なる紙屑の山に過ぎない。つまり、データから何かを読み取るという能力が付随しているのでなくては、役に立たないのである。


 いまはある会社の社長になった人が、学校を出て入社したころ、会計課へ回された。それからの毎日は会社中から集まる伝票の整理と集計である。書き落とした伝票、数字の間違い、二重発行など、チェックだけでも大変である。伝票の山にうずもれる仕事を半年もやらされて、とうとうネを上げた。そこである幹部のところへ窮状を訴えに行った。


 「毎日が紙屑との戦いじゃやり切れません。営業にでも回してください。抜群の成績をあげてみせますよ。この伝票の様子から見ると、ウチの営業は何をしているかわかりませんね」


 ところが、その幹部は落ち着いたものである。


 「それみろ、君の所には会社中の伝票が全部集まる。それをよく見ていれば、営業だけじゃなく、会社のすべての部門がどのように動いているかわかるということじゃないか、なぜそれをやらないのか」


 これで彼はハッと気がついた。それからは毎日の仕事が楽しくてしかたがない。数字の面から、会社の動きについて完全につかむことを憶えた彼は、やがてトップの座を占めるまでに至ったのである。


 ここに調べるということの本質的な意味がある。データは集めればよいというものではない。重要なことは、そこから何を読み取るかということである。そして、これはデータの示す意味を評価する能力である。評価とは、重みずけをすることである。だから、何かの基準をもっていることが前提である。重みづけは一般に目的から生まれる。先に「南の島に靴を売りに行ったセールスマン」の話があった。原住民が裸足だから、売れると判断したのは靴を売りたいという意思、つまり目的から眺めたから直感的にその結論が得られたのである。


 ここでいう評価能力とは、別の言葉でいうなら、問題意識ともいえる広い意味のものである。


知るための調査と行うための調査


三、データ分析のためのサイバネティクスの方法②


 過去の歴史の長さを自慢する会社をときどき見受ける。しかし歴史とは、ただ時計の針が何回も回ったということではない。

それだけなら、ただ古臭くなって老いぼれたというだけのことである。歴史とは、それまでの行動の中から、多くの失敗と成功の教訓がフィードバックされ、現在の行動の中にすべて組み込まれている、ということでなくてはならない。


 とくに販売の世界では、理論的な推測や判断が適用しにくい。それだけにサイバネティクスの方法は、調査なり情報活動についての本質的なものを教えるものであることを、よく理解しておく必要がある。


 大島航路の場合、船の位置を調べるといっても、年中観測を繰り返している必要はない。当初、船の方向を決めると、しばらくはその方向に走るからである。だから位置の測定は、いくらかの間をおいてやっても、いっこうに差支えない。この場合、あまりその間隔が間遠になると、修正不能なくらいにずれてしまう。だから船の速度や進度を決めたあとの誤差、修正がどこまで可能かといったことを調べて、測定間隔を決めるのである。この場合、港に入る時には、位置の観測と修正は頻繁にやらなければならないが、広い海に出ると、もっと間をあけてやればよい。その理由はすぐお判りだろう。


 これと同様、売りながら調べるといっても、やたらに調べる必要はない。しかし市況が急速に変わるようなときには、年中、見張っていなくては危ない。


 このようなことを考えたうえで、フィードバックの環をつくっていけばよいのである。このあたりのコツは、人間の健康を維持するための定期診断の場合を考えれば、わかるはずである。


 人間の身体の調子は健康でさえあれば毎日調べてもそれほど変わるものではない。だから一年に一回か二回か定期的に見ればよい。ところが病気にかかった時は、状態がどんどん変わる可能性があるから、こまかく、しかも頻繁にデータをとるのである。


 さらにいまひとつは、過去にとったデータが蓄積されたら、これを分析することが行われる。すると短期間の観測では、気がつかなかったような変化についての情報をつかむことができて、「あなたはあまり酒は飲まない方がいいですよ」といったことになる。


 これは、統計屋のいう大波と小波の問題である。小波が問題になる時は、短期的にこまかくデータをとらなくてはわからない。ところが長期の問題は、こまかくとったひとつひとつのデータでは帰って分からない。むしろそれは平均化して小波を取り去り、長期間のデータでながめるのである。



知るための調査と行うための調査


三、データ分析のためのサイバネティクスの方法①


 ここで、データなり情報がわれわれの仕事の中でどのような機能をもっているかについて、一応の認識をもっていることが必要である。これについては、N・ウイーナーが指摘したサイバネティックスの考え方がある。それについて説明しよう。


 いまではロケットが人間を月まで運ぶことについて、誰も疑問を持たないが、当初は月にロケットを到達させること自体が大変な仕事だった。月と地球との軌道をよく計算し、正確に秒読みをして打ち上げても、なかなかうまくいかなかった。


 ところがもし、このロケットに人間が乗っていて、自由にこれを操縦できたとしたらどうだろう。月に到達するどころか、任意の地点にまで到達させることも、それほど厄介ではないはずである。それは一体なぜだろうか?


 月ロケットはいささか世間離れした話なので、もっと手近かな例を考えよう。東京から船で伊豆大島まで行くことを考える。

そのための一つの方法は、途中で出合う潮の流れや、風向風速など、船の行動に少しでも影響すると思われる因子をすべて細かく調べて、船の動かし方を決め、その上で計画通りに舵を取るという方法である。これを精密科学的な方法という。もしうまく行かないときは、もっとデータを積み上げていけば、もっとうまくいくだろうという考え方である。


 しかし、現実の船はこのようなことはやらない。出帆の時刻が来ると、とりあえず船を出す。そしてしばらく走ったら、灯台その他で自分の位置をはかり舵を修正する。そしてまたその結果を見て修正する。考えてみれば、ずいぶんずぼらなやりかたのようだが、これで船はきめられた時間に大島の岸壁にピタリと横付けされるのである。


 この場合の船長の行動は次のようなことである。まず目標を定める。そして行動を開始する。しばらくしたら、その結果が目標からどれだけずれているかを調べ、それによって必要があれば修正する。これを目標を中心として繰り返すことによって目標に到達できるのである。


 これをフィードバックによる方法というが、この環をうまく形成しておいて、あとは目標を適切に与えるやり方の方が精密科学的な方法よりも、むしろうまくいくということで、ウイーナーがサイバネティックスという名を付けた。サイバネティックスとは、ギリシャ語の舵を取る人という言葉から出たものである。


 たとえば、手を出して目の前の品物をつかまえるということを考えてみても、このようなやり方をしていることがわかる。


 この場合、手から品物までの距離を精密にはかって、手の動かし方をきめてやっているのではない。とりあえず手を出し、手が目標に近づいてから、手と目標のずれを逐次修正してつかんでいるのである。


 販売活動においても同様である。いくら精密に市場を分析しても、その通りになるとは限らない。大島航路でいうなら目標の大島自身が動いているようなものである。この場合、当初目標はきめるが、あとは目標と自分の位置とのずれを調べながら、追いかけるというやり方の方が、はるかにうまくいく。


 これが、売りながら調べ、調べながら売るのが、商売の鉄則であるといったことの、理由である。


 進歩とは、実はこのようなフィードバックの環が、どれくらい回ったかということできまる。


 販売について当初いくら考えても、人間の考えることだから思い違いもあるし、方向はよかったはずなのに世の中の方が変わって、駄目になることもある。しかし、フィードバックが巧みに行われるなら、無駄な動きがなくなり、ますます洗練された行動が可能になって、目標に到達できるのである。


知るための調査と行うための調査


二、販売活動は最も有力な市場調査の手段③


 やり方によっては、調べれば調べるほど、その調査から利益をあげることさえ可能なのである。


 また、いまは、会社の打つ手についての問題を取り上げたが、他社の販売活動も、もちろん大きな実験である。であるからには、そのデータも、有難くいただく必要がある。ただこの場合は、自社のそれと違って、データのとりかたと、その解析には、特別の注意が要る。これらについては後に再び述べることとする。他社の手のうちを、徹底的に調べるやりかたは、はなはだ有効で、わが国でもいくつかの会社がそれによって大きな成果をあげている。それがあなたの競争相手でなければ幸いである。さて、これらのことからもわかるように、日常の販売活動は、それがそのまますべて調査の対象となるべきもので、この二つの機能は、表裏一体となっていなければならない。調査だけのための調査などというものは、金ばかり食って、しかも再現性の点でも、なかなかうまくいかないものなのである。


 そこで日常の販売活動は、せっかくそれだけの人と金を使うのだから、そこでねらった意図がはたして当たっていたかどうか、いくつかの方法のうち、どこに最良の点があるかどうかについて、必ず正しい情報が得られるように、計画的に行われる必要がある。このようにして得た結論が、必ず次の販売活動に使われるということになれば、その進歩たるや驚くべきものがあるであろう。



知るための調査と行うための調査


二、販売活動は最も有力な市場調査の手段②


 ある会社が、地方各都市で催物をもち回る際に、そのPRの媒体をこの手で調べたら、最も強力と思われたテレビが案外だめで、一番馬鹿にしていたポスターが、意外に有力であったという例もある。また、広告の相乗効果という言葉も盛んに使われているが、あなたの会社でもこの種の方法で調べてみていただきたい。ものの本に書いてある一般常識というものは、案外あてにならないことが、判明するであろう。


 現在テレビは、広告媒体として最も有力なものの一つということになっているが、大衆商品でありながらものによってはサッパリ効果がないことも、この種の調査で簡単に判明した。


 先に調査の経済性を保証することが必要だと述べたが、一般には、それによる効果がいくらあったということよりも、くだらないPRや、販売活動をやめたことによる経費の節約の面で証明される場合の方が多い。ある医薬品会社では、この方法で、ある種の銘柄には新聞広告が無効なことを知って、それを全廃した。ところが、売上げについては少しも影響されることなく、現在なお、その商品については業界の第一位を独走しているという例もある。


 そしてこれで浮いた経費は、年間実に二億円に達した。後にもいくつかの例をあげるが、これは単に広告活動に限らない。お客様への盆暮のつけとどけ、温泉招待における接待方法、マージンのつけかた、小売価格の決定、デザイン等々、われわれが販売活動の面で、少なくとも選択またはコントロール可能なものは、すべてこの種の「市場実験」、それも、日常の販売活動を通じての実験から測定が可能であり、しかも、そのための費用は、無視できる程度である。


 売りながら調べ、調べながら売るという考え方は、ひとり一人のセールスマンにまで徹底しておくことであって、それはモラールの向上にもなる。


 お客といっても十人十色である。なかには悪意としかとれないようなひどいことをいう人もいるだろう。だからといって、腹を立てたり敬遠していたのでは、セールスマンとして落第である。そのようなときには、次のようにいって元気づければよい。「君が一度くらい行ったからといって、モノになると思わない方がいい。せっかく行くのなら、データだけはとってこい。こちらがどのようにいったら、先方がどんな返事をするか、それさえわかればよいのだからしっかりやってこい」


 こう言っておけば、どんなにひどいことをいわれても腹が立たなくなる。むしろ次にはどういうだろうということで興味さえ湧いてくる。こうなればしめたもので、そのときのデータは次の訪問で必ず役に立つ。そしてそれは、セールスマンにとって貴重な経験となる。


知るための調査と行うための調査


販売活動は最も有力な市場調査の手段①


 よく考えてみると、毎日行われている販売活動は、ひとつの大きな実験である。そしてその実験費用は販売経費として、かなりの額が落とされている。これだけ大勢の人と金を使って、日々実験を行いながら、データをとらないとしたら、実にもったいない話である。そして、これからのデータが得られるとなれば、製造の場合でいえば、実際の製造現場を使ってやる実験のようなものであって、その再現性は最もよいはずである。


 このようなことから、市場を調べるには、販売活動とまったく別に計画を立てて行うことはなるべく避けて、日常の販売活動を通じて、情報を求めることが、再現性、経済性、気密の確保など、あらゆる点で合理的なやりかたということができよう。

 だがこの場合、何も考えなしに、日常の販売活動を自由勝手にやらせながら、データをとったのでは、ただでさえつかまえにくいいろいろな要因が、複雑にからみ合って、その一つ一つの効果を分離することはほとんど不可能となる。それで、情報を求めるためには、ある程度の細工をしておくことが必要となる。


 どこの会社でも新製品の発表といえば、テレビも新聞もポスターも、某月某日を期して一斉に宣伝を開始するというのが普通であるが、宣伝活動の効果を調べるという立場からみると、これは最も困ったやり方である。というのは、このようにすべての媒体を利用して、ワッショワッショとやるのは、まるでお神輿を担いでいるようなもので、誰がどれだけの目方を担いでいるかわからない。中には逆にぶら下がっている奴もいるかも知れない。面接調査の方法でもやれば、どれが効いたかわかると考える向きがあるかも知れないが、それにはまずべらぼーな金がかかるし、それに、このようにして得た結果をどのように解釈するか、また十分な信頼度が置けるかどうかにも、問題が多い。


 しかしこの場合、どうせそれだけ金をかけるのならば、宣伝のやり方を、ちょっと変えてもらえば、統計についてのまったくの素人でも、簡単にそのうちのどれが効果的かが直ちにわかるのである。


知るための調査と行うための調査


一、市場調査は何よりも利用価値をとるべきだ③


 ところが、この調査を、次のように行ったらどうであったであろうか。工場で現在生産可能な色の蛍光灯のうち、明らかに感じの良くない色のものは初めから取り除く。そして大体これなら売れそうだと思われるものを何種類か製造する。そしてデパートとか、小売店で、実際にいろいろの方法で売ってみるのである。このようにして一番売れた蛍光灯の色というものは、ちょっとした注意がこの計画に払われてさえいれば、結論の再現性は最もよい。つまり、その色の蛍光灯をお客が財布をはたいて買ってくれたという事実は、何よりも強いのである。しかもこのような実験的調査には、費用はほとんどかからない。すなわち、できた蛍光灯の中から好みのものをお客に買っていただくのだから、ロスは売れ残りの品物の費用だけということになる。


 蛍光灯の色についての好みの調査といっても、いまあげた例でもわかるように、知るための調査と、行うための調査とでは、手順、経費、再現性および結論の有用性において、まったく違った形となるのである。いろいろなデータからいくらその色の光が良いといっても、工場で作れないものは作れないのであって、販売活動のためには差し当たり何の役にも立たないのである。

販売部門でできることは、可能ないくつかの手の内から、最良のものを選び出すこと、つまりここではどの蛍光灯を売るかということ、およびまったく新しい実行可能な着想を出すことだけである。原則や実態をつかんだだけでは、わかったということだけで、何のプラスも、われわれにもたらさない。先にも述べたように、調査データの精度が何パーセントまであるということは、その利用価値とは別のことなのである。われわれはそれを、具体的行動にどのように利用するかによってのみ、経済的利益を得、そして企業としての正しい評価がなされるということを、肝に銘じておくことが必要である。


 さて、先にあげた例でもわかるように、手の決定という目的に、常にしぼりながら問題を追いつめるというやり方は、オペレーションズ・リサーチのほうでいわれる科学的問題追跡法(サイエンテフィック・アプローチ)といわれる考え方と、まったく一致するものである。そしてこれによって、はじめて調査の経済性が保証できることになる。この場合、手を思いつくためには、もちろん市場についてのいろいろな知識が必要であろう。しかしこれについても、私は特別な調査はなるべく行わないで、日常の販売活動そのものから、情報を求めることが最も望ましいと考えている。



知るための調査と行うための調査


一、市場調査は何よりも利用価値をとるべきだ②


 近頃は市場調査ブームで、相当の金がこの方面に投ぜられるようになったが、それが本当にペイしたかどうかとなると、かなり怪しいものがずいぶんある。


 われわれが、この種の問題に血道をあげるのは、つきつめればやはり物が売れて、これまでよりも経営をより安全に維持するためである。このことは、どのような形で調査が行われるにせよ、それが企業の目的をはたすための手段として行われるのであるからには、どこかで十分引き合うものでなくてはならない。何百万円の金をかけて、何かを調べた結果、立派な報告書ができたとしても、わかったということだけでは、何の利益も企業にはもたらさない。もともと知識とか法則とかは、学問的価値は別として、経済的価値評価はできないのが普通である。そしてそのような利益は、市場に対する行動によって、はじめてもたらされるものである。


 これまでよく、調査結果について、その精度の高いことを誇り人がある。しかしその数字の精度が一桁よいということが、一体どのような意味があるのか、またどれだけの経済的利用価値を増すのかは、別のことなのである。一般的に言って、精度を十倍にするためには、普通のやり方によると、原理上、実に百倍のデータが必要なのである。だが、行動の選択から見ると、一桁精度が上がったからといって、とるべき態度が百八十度逆になることはまずないであろう。この種の問題についていまひとつの例をあげてみることにしよう。


 今はかなり良くなったが、蛍光灯の色は昔はかなり不評を被ったものである。初めは物珍しいうえに、電気代が安いとか、見た目にきれいだとかいうことで、相当の数量が売れたのであるが、やがて需要家から文句が出てきた。というのは、料理田でつけると、鮪の刺身が腐ったように見える。喫茶店ではコーヒーが黄色っぽくなって、汚れた色に見える。デパートの衣料品売り場でも、色違いの問題が起きるし、散々であった。


 この非難は下手をすると蛍光灯の死命にも関係しそうになった。そこで、あるメーカーでは、さっそく研究所や、大学の先生などを動員して、色についての大々的な研究と調査を行い、その費用は当時数百万円にものぼった大がかりなものであったが、それによってこの会社は経済的利益を得るところは、ほとんどないという困った結果になったのである。そこには何かが抜けていた。


 というのは、この調査の内容として、人間はどのような光のもとでは、どのような感じを受けるか?とか、明るさとの関係、疲労度など、一般顧客にアピールするには、どの種の光源が最も良いかといった嗜好についての問題などを知ることを目的として、精しいデータをとったのである。そして、この種の住居における光の色に関する研究は、これまで少なかったので、いろいろな珍しい学問的価値のある情報をもたらしてくれたのであるが、しかし会社は儲からなかった。


 というのは、調査で一番よいということになった光の色の蛍光灯が、現実には、製造できなかったからである。その色を出すだけなら可能であったが、一般のにくらべると効率が悪くて、他のものと比べると暗いから、売り物にならない。したがって、将来の研究目標を示したということなら別だが、販売はそれまで待つわけにはいかない。


知るための調査と行うための調査


一、市場調査は何よりも利用価値をとるべきだ①


 これまで市場調査として行われた消費者の嗜好調査とか、流通動態調査などは、よく考えてみると、大部分が知恵の問題を解決するための推理に必要なデータを求める、いわば知るための調査であったということができる。すなわち、このようなデータから市場の様相を一桁でもこまかくつかむことができれば、これに対してうまい手がわかるであろうという考え方である。


 しかし何かわかったからといって、必ず売れるという保証はないのである。われわれは市場に対して、具体的になんらかの手を打たねば、販売は促進されない。さらに、理由がわかっても、良い手が見つかるとは限らない。最も重大なことは、原理を発見することではなく、すばらしい手をできるだけたくさん持つこと、つまり「知恵」の問題と、そのうちから最も良い手を選び出す「判断」の問題である。つまりアイデアとチョイスの問題である。そして判断の目的で行われる調査は、行動のための基準を決めるという意味において、行うための調査または実験ということができよう。この場合、良いアイデアをだすために、市場について何か知る必要があって、データを集めるとしても、それが最終的に行動に移されるという目的のためとなると、たとえ知るための調査でも、やり方が違ってくるものである。


 わが国で客観的データから需要予想をたてようとした努力のうちでも、最も古くからあるものの一つは、電話需要の発達調査である。これは、将来いろいろの地区で、どのように電話需要がのびるかを予測するもので、これによって、電話局をどのように建て、電話線をいくら引けばよいかを、決めようというのである。しかしながら、電話の需要の変動は、非常に多くの要素によって支配され、なかなか予想は当たるものではない。それは多くの先輩の努力にかかわらず、この種の知るための調査だけでは、なかなか解決しないものである。


 ところがここで立場を変えて、ある地区に電話局を建てるについて、いつどこに作るのが一番良いかということにすると、話はこれとだいぶ変わってくる。すでに家の建っているところでは、よほどのことでもない限り、割り込むわけにはいかない。またその地区のはずれに建てるのでは、電話線が長くなって、コストが上がる。だから、われわれのやれることは、その地区の中心近くに空いている土地をいくつか選定して、そのうちのどれかを選ぶより方法がないわけである。そして、これをきめるための調査ということになれば、知恵のためでも、判断の問題のためでも、はなはだ簡単になる。


 しかも、このようにして得られた結論は、膨大な過去のデータを整理して得た予想からの結論とくらべて、結果において、その差がほとんどないはずだ。われわれができることの範囲は決まっている。その中で結局きめることになるからだ。この場合、ある程度の予測が必要であるとしても、土地の選択が最後のねらいであるなら、問題の範囲が非常に制限される。それで実際上、予測のデータだけから積み重ねていくときに比べれば、はるかに簡単なもので済むであろう。


 このように、データをとる場合、これを市場に対する手の決定のためという立場から考え直してみると、問題が非常に単純化されるだけではなく、それを調べるための経済性の問題も、保証されるのが普通である。すなわち、まずわれわれが、現在の市場について、会社が、実際に打ち得る手にはどのようなものがあるかを考える。その中から、明らかに不合理なものとか、これまでのしきたりとかのために、やれないものなどを、これまでの経験や勘などによって捨てていき、それだけでは判断のつかないところまで、追い詰め、どちらがよいかわからないものだけを、事実に基づいて比較してみる。この場合、調査その他に投ぜられた費用は、得た結論を実際の行動に移すわけであるから、十分引き合ったかどうかが、すぐわかるわけであって、バランスシートに乗るということになる。これこそ計画のコツである。


「販売のための市場調査」はここが違う


六、予測をもとにして行動することの危険性


 かなり以前だが、あるカーボン電極を作っているメーカーの人が訪ねてきて、日本経済の十年先の見通しについてのデータはありませんか、と聞かれたことがある。そのころ筆者たちは、電電公社(現NTT)で日本の電源網の長期計画をつくっていたので、いろいろな基礎資料は整えていた。しかし、それをそのまま先方へ渡すわけにはいかないし、またそれが役に立つかどうかわからない。そこで何に使うのかと聞いてみると、その会社の十年先までの経営計画をつくるためにほしいというのである。


 それなら、われわれの資料は役に立たないからダメですよ、といったのだが、熱心で簡単には引き下がりそうにない。この数字をどのように使うかの見当はつかないでもない。まず十年先の日本経済規模の数字が固まったら、電極を使うアルミの需要がいくら、ソーダはいくらという数字が出てくる。これから電極の総需要量が出てくるから、それに当社の想定占有率をかければ、どれだけの工場をもてばよいかがわかるというのである。


 この話はすべてがもっともだし、またどこの会社でもこれと同じような方法で計画を作っている。だがしかし、十年後の経済規模の予測から積み上げるやり方は、あまり役に立たない。まず十年後の予測というのは、かなり誤差がある。それをアルミ、ソーダなどと小分けにすると、また誤差が重なる。だから、電極の総需要量の数字が積み上げられた時は、まるで誤差のかたまりになっている。そこで、これに占有率の数字でわりかけたときは、まったくの絵にかいた餅としかいいようのない数字になっている。


「そんなものでやるほどなら、年率何パーセントアップというのでメノコで決めた方が、まだ信用できますよ」

 このようにいってやったら、実に不満そうな顔をしている。


「では、あなたの会社が十年間あらゆることがうまくいったとして、何倍まで成長できると思いますか?まずその計画をつくってごらんなさい。この計画はできるだけ具体的なもので、資金繰りはどうする、工場はどこに立てる。人の手当てはどうするといった具体的なものでなくてはだめですよ」


 すると、十二倍という案が出てきた。ではこれをA案としよう。ところで、この案は少し甘すぎる。十年間となれば不況が二度くらいはあるだろうし、もし強気一本やりだと、しくじったとくき危ないかもしれない。そこで今少し堅実な案ということで、八倍という案が出てきた。これをB案としよう。


 このようにして、A、B、Cいくつかの具体案が出てきたが、

「あなたの会社としては当面これらのどの案にするかを決めればよい。この案のどれにするかを決めるときに、十年先の予測値がほしくなるであろうが、その予測はこのいずれの案にすればよいかがきまる程度の確かさがあればよい。その程度の予測ならやってあげましょう。しかし予測を先にやって、それから積み上げていくのはやめたほうがよいですよ」


 これが、計画を立てるコツである。予測からスタートするのは論理的にみえるが、このようなときは論理の積み上げの誤差がどんどん増えていくので、答えが出ても、それがどれくらいの頼りになるかわからないし、実行のことが後回しになっているから、その答えはまったくの絵に描いた餅で、実行不可能かもしれないのである。


 ところが、われわれがいまどれだけのことが実行可能かということを研究し、その中のどれを選ぶかという形で考えれば、そこで出た答えは必ず実行できるわけだし、もっと大切なこととして、その答えについて見通しがきくのである。


 結論について、見通しがきくということはきわめて大切なことである。予測から積み上げたものでは、答えが出ても、第三者にはそれが本当かウソかわからない。つくった本人でさえ、怪しいということになると、誰もそんなものは信用せず、ついには単なる論文に終わるのである。



「販売のための市場調査」はここが違う


五、好奇心と目的意識が知恵を生み出す


 前項の四つのステップをおしすすめるものは好奇心である。豊かな創造性は、どのようなことにも興味の持てる好奇心から生まれる。もともと人間は生まれながらに好奇心をもっている。子供はまさに好奇心のかたまりである。だからこそ進歩が早いのである。ところが人間は歳をとると、次第に好奇心を失っていく、そして何をみてもつまらなくなると墓に入るのである。だから、若さとは年齢ではなく好奇心だという見方もできよう。


 さらに大切なことは、そのエネルギーになるものである。創造性には精神の集中がいる。そしてそれは目的意識であり、追い詰められることである。泰平ムードではなかなか知恵は出てこない。


 これは大変なことになったという気持ちから、素晴らしいアイデアが生まれるのだある。期限が十分あるのにブラブラしていて、土壇場になると、ねじり鉢巻きでとにかく仕上げてしまうというのは一見だらしないように見える。ところが、早くから準備をしていれば、もっと良い仕事ができるかと言えば必ずしもそうではない。気が乗らないのにダラダラやっていても、素晴らしい知恵は出ない。もともと知恵とはそういうものである。


 人類の進歩の原動力として、競争が大切だといわれるのもこの原理によるものと言えよう。まさに〝国乱れて忠臣あらわれ、家貧しうして、孝子出す〟とは、このことである。日本の業界で国際競争力をもっているのは、過当競争の連続していた業界である。


 優れた指導的経営者とは、どのような成功の中にも、次の危機を発見することのできる人である。一つの問題が解決しても、それを解決したことが、さらに次の問題を作り出すというのが、人間のつくった社会の本質である。そしてこのような危機なり問題によって、自らを追い詰め、何とか解決しようと努力することから、自分でも予想しなかったすばらしい飛躍が生まれるのである。


 先に、「南の島に靴を売りに行ったセールスマン」の話でも、目的意識の重要性を説いたが、これは言うまでもなく企業方針から出てくるものである。つまり、会社はいま何をしたいのか、どの方向に進むつもりなのかの方向づけである。それを寝ても覚めても考えていると、日常みるものもふれるものも、すべてがその目的に結びついてくる。


 事実、発展する企業では、社員のすべてが経営者の考え方、方向をよく知っている。だから、第一線のセールスマンはもちろん、工場で品物を作る人、図面を引く人、外注先と折衝する人、すべてが同じ方向に向いて仕事をするから、結果としてすばらしい成功を収めることができるのである。


 創造的経営は、企業方針から生まれるというのは、このことである。


「販売のための市場調査」はここが違う


四、販売の知恵を出すための四つのステップ③


③組み合わせをつくること

 一般にアイデアとか推理といわれる作業である。ここで大切なことはいうまでもなく自由な精神である。何を考えても、何をいっても差支えない、という空気がなくては組み合わせがふえない。このことは過去の歴史をみても明らかである。近代文明の華が咲くきっかけとなったのは、イタリアのルネッサンスといわれるが、これは教会の権威が衰え、自由な発言ができるようになったことから始まった。このことはどこの国でも例外はない。考えることの自由の抑えられている社会から、独創的な仕事が生まれることは、はなはだ困難である。


 ここでは、だから、あらゆる組み合わせについてそれは可能かどうかなどは一応別にしておいて、つくってみることである。


 創造性開発の方法として有名な川喜田二郎氏のKJ法では、そこで出てきた言葉をすべてたくさんのカードに書きとどめておき、これをいろいろとグループ分けして、組み合わせる。これは、まさにこの原理によるものである。こうすることによって、言葉の順序づけが無視され、これまでの既成概念からの離脱が容易となるのである。落語でいう三題噺では、お客から勝手な言葉をいってもらって、これをつづり合わせてひとつの物語をつくるのだが、バラバラに切り離された知識をつづり合わせて、意味のある体系を作り出すことは創造的活動の例として参考になる。


 さてこのようにして、つくり出されたアイデアの大部分はつまらないものだろう。そこで、その中からひとつだけすばらしいものを、取り出すための仕事が残されている。


④評価ができること

 考えてみると、すばらしいアイデアマンというのは評価の名人である。ところが世間にはときどき、これを思い違いしている人がいる。誰も言わない珍しいことを口走っただけで〝あの人はアイデアマンだ〟とはいえない。世間の人がいわれるような、珍しいことをいうだけの人なら世の中ではいくらでもお目にかかることができる。名人と普通の人の違いは、珍しいことをいうという点では共通性があるとしても、そこにひとつだけ違ったことがある。それは評価の能力である。


 このようなことからもわかるように、すばらしいアイデアを出すためには、何といっても、まず何でも知っていること、それに基づく常識が発達していることが大切である。



「販売のための市場調査」はここが違う


四、販売の知恵を出すための四つのステップ②


②規則性を発見すること

 事実の中には多くの規則性なり繰り返しがある。経験が役に立つ世界には必ず規則性がある。というよりも、デタラメに起きていることは、われわれとして利用不可能だといったほうがはっきりするだろう。規則性のあるものだけを拾い出し、これを組み合わせるのが知恵である。


 学問でいう法則も、このようにして発見された規則性といえるが、ただここで注意すべきことがある。それは、法則には寿命があることもある、ということである。法則の寿命というと不思議に聞こえるかも知れない。自然科学の法則には寿命の長いものが多い。しかし、世界中の物理学の教科書にのせられている法則でも、それに合わない事実がひとつでも発見されると、その法則は否定されるというのが、自然科学の鉄則である。そして毎年のように死んでいく法則がある。


 だから、何十年も昔の経済学者や社会学者のいった法則を、いまでも適用しようというときには、その寿命について、よほどきびしいチェックをしておかないと危ない。日本の第二次世界大戦の急速な変化には、欧米諸国で発見されたほとんどすべての経済学の法則が適用できなかったことを思い出してほしい。とくに、日本人の消費者行動は特異なもので、欧米の学者の説では理解できないものが大部分である。


 だから、われわれはみずからの手で、新しい法則を発掘しなければならないし、それだけに楽しみも多いというわけである。逆にこちらから海外の市場に出かけるときは、それなりに、それに対応する法則を見つけ出すことの必要性も、忘れてはならないことである。


 書店に行くとたくさんの本があるが、そこに書かれていることは、すべてが過去に存在した歴史の一コマであって、今日も生きているかどうかは別の話だという目でみる必要がある。



「販売のための市場調査」はここが違う


四、販売の知恵を出すための四つのステップ①


 販売は、アイデアの勝負だとか、創造性開発が大切だとかいったことがいわれる。とくに宣伝広告の方面ではクリエーター(創造する人?)といったズバリの言葉さえ使われている。


 これらは、いうまでもなく知恵の問題だが、ここで知恵とは一体何かを考えてみるとしよう。それは次のようなことである。

「どのようにすばらしい知恵でも、結局はその人がこれまでに知っていたことの、新しい組み合わせの発見である」


 このように述べると、いや私は寝ている間におもいもかけなかったようなことを、突然思いつくことがあるといったことを、主張する人がいるかも知れない。もちろん、そのようなこともあるだろう。だがしかし、目が覚めてからその内容を図面にするとか、人に伝えるとかいったときには、結局はその人がこれまでに知っていた言葉とか方法、道具などを組み合わせるより方法はない。知らないことは知らないのであって、それを知恵の中に組み込むことは無理である。つまり知恵とはその人がこれまでにもっていた情報の新しい組み合わせの発見である。


 このように考えると、知恵を出すには次のような四つのステップが必要なことに気づくはずである。


①事実を知ること

 まず知恵を出すには、何でもできるだけたくさん知っていることである。タネがたくさんあれば、それだけ組み合わせは多くなる。これらの知識を仕入れるために本を読むのもよいし、人の話を聞くことも大切である。しかしこの場合、最も大切なことは、世の中でどのようなことが起きているかの事実を、みずからの手でふれてみることである。本も人の話も、すべては事実そのものではなく、誰かの頭の中を通過してきている。だから、必ずそこで一度ふるいにかけられて、事実の一部しか伝わらないということに注意すべきである。もちろん事実に直接ふれても、全体から見ればその一部だろうが、そこから受け取ることのできる情報の質と量は、人伝えのときにくらべてはるかに優れている。


 もともと、われわれの毎日の仕事は事実との闘いである。いくら理論的に、こうなるはずだといってみたところで、実際にやってみてその通りにならなければ、これはすべて屁理屈であり空論である。世間には理論と実際とは、必ず一致しなければならない。妙な理論で計画を立てて、実行したまではよいが、品物が売れず返品の山をきずいたなら、会社は潰れる。その場合、理論と実際は一致しないこともあるさといって、すますわけにはいかない。だから事実と闘うにはまず事実をよく知ることである。



「販売のための市場調査」はここが違う


三、前向きの見方がデータを役に立つものにする


 これは、たとえ話と思って読んでいただいても結構である。第一次大戦後、日本が手に入れた南方の島々があった。ここに、さっそく靴を売りに行ったセールスマンが二人いた。いろいろと調べたのだが、その結果、一人のセールスマンは次のような報告書を手紙として送った。


 〝この島に来てみても、住んでいる人たちはすべて裸足で歩いている。靴を履いている住民は一人もいない。もちろん靴屋もない。したがって、この島での靴の需要はゼロだ。見込みはない〟。ところがいま一人のセールスマンは、まったくの逆の結論を手紙に書いて送った。


 〝この島に来てみたら、実にうまいことに皆が裸足で歩いている。シメタ!靴をすでにはいていたのでは、さらに一足売るのは大変だが、もともと裸足なのだから、靴を履く習慣さえ植えつければいくらでも売れる。最も有望な新市場だ〟


 この二人はまったく同じことを見ているのである。ところが結論は逆である。一人は売れる見込みはないといい、今一人は最も有望な市場だということだった。言うまでもなく一番目のセールスマンの報告書は役に立たない。ところが困ったことに、一般の会社では、一番のような報告書のほうが説得力をもっているのである。論理のすすめ方には、全く矛盾はないし、データの裏付けもある。だから結論に反対する理由はひとつもない。


 さて、ここで大切なことに気がついたはずである。因果関係について矛盾がなく、理路整然とした推論で、しかも十分なデータが裏付けについていても、役に立つかどうかは別だということである。


 そこで問題は、どこでこのようにまったく逆の結論が出たか?の理由をよく知っておくことである。一番目の報告書は単なる事実の記述に過ぎなかった。これに対して二番目の報告書は、目的意識からスタートしたという違いである。販売のための調査は、いうまでもなく学問的な調査とは目的がまったく違う。データ解析も、その目的を実現するための手がかりをつかむという方向で行われなくてはならない。そして、そのデータなり数字から、バラ色の夢を描くことができるのではなくては何もならない。


 靴を誰もはいていないということは、普及率がゼロなのだから、100%に達するまでは一本調子で売れる成長市場だと受け止めるのである。もし靴がすでに普及して、皆が履いているなら、靴を履くという習慣が定着しているのだから、靴を履くことについての教育はいらない。売るにはかえって手間が省けて売りやすい、という具合に考えればよい。その場合はむしろ履いているかどうかより、いま履いている靴にお客は満足しているか、もっと履きよい靴を作るには、どの点を改良すべきかということについて、根ほり葉ほり調べることになるだろう。


 このような前向きの考え方をもつことによって、そこに新しいアイデアも湧き、それに成功することによって、消費者はより優れた商品の供給を受けることもできるし、より豊かで住みやすい社会が実現するようになるのである。

 事実の記述だけで終わるなら、少なくとも販売のための調査としては落第である。そこに目的にふさわしい知恵なり、アイデアが創造され、新しい発見があることが絶対的な必要条件である。



「販売のための市場調査」はここが違う


二、市場調査が役に立たないのはなぜか


 日本のオートバイ産業を世界一のレベルまでもっていった人と言えば本田宗一郎氏だが、氏が次のような名言をはいたことがある。

「市場調査と女心は当てにならん!」


 このようにいわれても、しかたがないくらいに役に立たない調査が非常に多い。最近はどこの会社でも、何か新しい企画をするとなると調査票を配ったり、面接に出かけたり、なかなか熱心なのだが、それがキメ手になってうまくいったという話は、意外なことにそれほど多くないのである。

 その理由は大体次の二つに尽きる。


 まず第一は役に立たないことを調べるのである。役に立たないことを調べても、役に立つはずはない。このようにいうと、何か詭弁のように聞こえるかも知れないが、調査で大切なことはまず何を調べるかということである。


 先ほどから何度もデータの重要性を強調したが、調査結果とかデータというものは、実体そのものを示すのではなくひとつの影である。影は光の当て方によって、形がどのようにでも変化する。だから、下手な方向から光を当てると、その影から実体を推測することは、まったく不可能になってしまう。丸い盆も真横から光を当てるなら、影は一本の棒のようになってしまう。


 その昔、暗闇で象を撫でたという話があるが、鼻にしか触らなかったものには、太い足とか、長いキバは想像がつくわけがない。もし長いキバがあるといってそれが当たったとしても、それはマグレ当たりというべきであって、少なくとも何かの根拠から出た推測、科学的推理ということはできない。


 だから、データというのは集めればよいというものではない。その集めるための計画が問題である。あるデータから、どれだけのことがいえるかは、その集め方を決めた瞬間にきまるものであって、それ以上のことをデータに語らせることは原理的の不可能である。


 どのような光の当て方をすればよいかについては、あとでゆっくり述べるが、とにかく役に立たない理由のひとつはこれである。いまひとつは、せっかく役に立つデータを集めているのに、そのデータの読み方、結論の出し方を知らないために、結局、役に立たなかったということが少なからずある。


「販売のための市場調査」はここが違う


一、販売のための市場調査がなぜ必要なのか②


 「新製品を出すとき、初めに予想してその通りになったといえることは、まずありえませんな」。これはある家庭用品のメーカーの社長の話である。


 「ぜんぜんということはないでしょう」と言葉を入れると、 「いや、お金をなげて、表が出るといっても二回に一回は当たりますからね。予想通りになったとしても、本当にそうなのか、まぐれ当たりなのかわかりませんよ。はじめによく考えるけれどそれでいいというものではなく、発売したらとにかくしゃにむに全力投球をつづけるだけです」


 このようにいったからといって、論理の積み上げが全く役に立たないといっているのではない。因果律による推理が十分うまくいく場合もずいぶんある。しかし、物が相手の場合に比べると、人が相手ではこれが通用しないことの方が多いのである。しかも最も重大な場面、たとえば新製品の開発とか、価格の設定とかいったときに、これだけに頼ると危ないから困るのである。


 せっかく苦労して開発した商品でも、開発する直前に他社がもっと別な目新しいものを出すと、当初の予想通りにいくわけがない。広告のやりかたも、なかなか理屈通りにはいかないものの代表的な分野である。ある品物が売れなかったとき、「商品にはどうしてもギャンブル的な要素がありますよ」といって落ち着いているわけにはいかない。企業に要求されるものは永続性である。一発勝負で負けたらおしまいというのは博打であって、企業経営では許されてはならないのである。


 だから、安定した経営のためにも、あらゆる方法を動員して明日のための活動をつづけなくてはならない。ある商品が売れなかったとき、それがなぜ売れなかったかということについての因果関係を、いくら明快に説明してもらっても、それで売るための方法が見つかればよいが、結局売れなかったというのでは、何の役にも立たないのである。


 だがしかし、どのような販売の分野にもやはり神様がいて着々と実績を稼いでいる。そこで、神様を研究してみようという気になったのである。神様はなぜそのようなことを考えたのかの理由は説明できなくても、とにかくこうやればうまくいくという方法は教えてくれる。

 これを神がかりと言っては間違いである。神様とは統計が洋服を着ているようなものだというのが、私の主張である。


 だがしかし、データを集めさえすれば必ずうまくいくかといえば、そうもいかない。次の話を聞いてほしい。


「販売のための市場調査」はここが違う


一、販売のための市場調査がなぜ必要なのか①

 

 人間は、理屈をこねることのできる動物である。

 いつのころからか知らないが、人間は論理の積み上げによって、推理する能力をもつようになった。これはすばらしいことで、数千年も昔の文明遺蹟をみても、その能力がなくては実現できない精緻な積み上げをそこに見ることができる。つまり因果律の成功である。とくに、これは自然現象を相手としたときはヒットの連続であった。これが自然科学の発達である。


 しかしながら人間を対象としたときは厄介である。人間は感情の動物といわれるが、感情とは理屈通りでないということであって、そのためにまったく予想しがたい行動を現実に行うのが人間である。それに世の中の現象は、すべての因果関係が明らかになった上で、ことが進行しているわけではない。


 学問の場合は問題を純粋化して扱うことが許されている。水の中のわずかな不純物のために、データがバラバラになって規則性の発見がむずかしいときは、不純物をあらかじめ取り去った蒸留水や純水を使うことは珍しいことではない。


 ところが販売の世界では相手が人間である。人間は十人十色というが、一人ひとり顔に違いがあるように、その性格も趣味も違うし、また生活感情についてもそれぞれ同じではない。だから純粋化してデータをとるということはむずかしいし、またそのようなデータをとってもその結論が他にも適用できるかどうかの一般的な保証はない。むしろ条件をととのえるためにこまかな制限をつければつけるほど、その結論の一般性は失われていくのが普通である。



 だから、自然科学の分野ではあれだけすばらしい威力を発揮した因果律による方法が、まるで神通力を失ったようになってしまうのである。もちろん、ある商品が大ヒットしたとき、その理由について実にもっともらしい理由づけがなされていて、なるほどと感心させられることもある。だが、現実がその通りに進行したと考えるのはいささか甘い。多くの場合それは〝あと知恵〟というヤツである。だから、前に成功したからというので、同じ論理の積み上げを忠実に実行しても、予想通りになるかどうかわからない。


企業の未来は販売力で決まる


七、データ活用が接待の効果を上げる


 これはある大手の鉄鋼メーカーへ行ったときの話。秋の学会で工場見学をお願いしたのだが打ち合わせが終わってお昼になった。そこで箱弁当をごちそうになったのだが、雑談をしていたらある若い技術者が突然次のような質問をむけてきた。

「あなたは市場調査の専門家だそうですが、ウチの会社では、大勢を相手にするような調査だの統計というのはあまり役に立ちませんね」というのである。

「なぜですか」と聞いてみると、「いや、ウチの会社の営業成績は国際情勢とか、政府の方針などで大体きまるので、面接だの動機調査だのは関係ないですよ」

 そこで聞いてみた。「なるほどそうかも知れません。しかし、ここでちょっとうかがいたいことがある。私の勤め先は電々公社で(その当時の筆者の勤め先)、あなたの会社とは取引も何もないのに、このようなお弁当をごちそうになるのは実にありがたい。ところがもし私が××省の○○局長とか、造船メーカーのナントカさんという肩書きだったらどうします。この程度のお弁当だけではすまないでしょう。何だかんだと日が暮れるまでは引きとめておいて、夕方になったら『お宅にお帰りになって食事されても、私たちがおともしても、時間的にそれほど違いはないのですから、いかがです』といって、どこかに連れていくでしょう。この場合、今夜、どこかの料理屋に行くか、レストランに行くか、または銀座のナイトクラブにまで足をのばすか、一体誰がどうやって決めているのですか?」

 こう質問したら相手はグッとつまった。この場合、接待をするということは気心がわかるとか、その他とにかく、何かの効果があることを期待してやっているに違いない。そうなれば接待の仕方によって効果に差が出てくるかもしれない。酒のロクに飲めない人を日本料理屋へ連れて行っては、気の毒である。歌もできないのにカラオケバーに連れて行っては、指をくわえて人の歌うのをみているしかない。

 そこで、せっかくお金を使うのなら、あらかじめよく考えて、その効果の測定も考えた上で接待をすべきである。そしてもし本当に国際情勢か何かだけで営業成績が決まるのなら、どのような接待をしても効果に差がなかったという結果が出るだろう。

 それならそれなりに接待の方法を考えるべきである。ここでいう効果とは、別に反対給付を期待しているといったことではない。せっかく貴重な人とお金を使っておつきあいするなら、相手に喜ばれる、もっと生きた使い方をしたらどうですかといっているのである。

 だからデータをとるとか、統計で考えるといったことは販売だけでなく、企業活動のすべての面についてきわめて有用である。そしてテーマによっては統計でなくてはわからないこと、解決しない問題がある。

 

 さてここで、問題解決のための方法には、二つあることから話をすすめよう。



企業の未来は販売力で決まる


六、どの客もおいしいといわせる料亭の秘密


 これは名古屋のある料亭の話。そこは何年か前からだが、料理がおいしいということで、ごひいきが急激に増えた。それが一部のうるさがただけが、ほめるというのではない。訪れる回数が多い客なら皆がおいしいというのである。板前の腕がとくによいというわけでもないのだが評判が良い。

 そのネタ明かしは次のようなことだった。数年前の教育テレビを何気なくみているうちに、ひょっと浮かんだヒントである。

その店にはこれまでに食事したお客のカードが、キチンと整理されて保管されている。お客の食事が終わると食卓を下げてくるわけだが、必ず仲居さんが食べ残した料理や、お酒などを調べてカードに記入するのである。このカードはそのあと整理して、板前さんの最も貴重なデータとなる。これをみればお客さんの食事の好みが一目でわかる。

 そこで、お馴染みのお客さんがみえるときには、このカードをチラッと横目で見ればよい。来るお客さんは自分の好きなものばかり出るのだからまずいわけがない。そこで大好評、メデタシということになる。


 実はこれは古きよき時代の一流の料亭ではむしろ当たり前のことだった。大切なお客様がみえたとなると、板前が挨拶にまかり出てご祝儀をいただくといったことも、珍しくはなかった。だから、当時はおなじみさんの舌の好みを板前が知っているというのは、一流の板前ならむしろ〝イロハ〟の〝イ〟の字だった。

 これをカードによって復活したのが、この料亭だったわけであって、これが統計の利用そのものであることはすでにお判りであろう。


 ところが、このような話ばかりが続くと、「それは家庭用の食品とか料亭のように大勢を相手とした商売では、なるほどうまくいくらしいが、官庁とか大会社を相手にするような場合には、統計はうまくいくまい。何しろデータをたくさん集めるわけにはいかないからね」と疑問をさしはさむ人もいるだろう。


 そこで次回の話を聞いてほしい。


企業の未来は販売力で決まる


五、データ活用で商売を広げた豆腐屋の話


 東京の中央線の沿線に高円寺という駅がある。このあたりには第二次大戦で焼けたところだが、焼けたあとに私は家を建てた。そのころは、商店はほとんどなく、行商の人たちから買っていたのだが、そのうちにある豆腐屋と仲よくなった。毎日リヤカーを引いて豆腐を売りに来る。ところが、世の中が落ち着くにしたがって競争が激しくなり、豆腐屋にもライバルができて商売がむずかしくなった。

 そのためある日、豆腐屋のオヤジがもう商売がえをしようかと思うとこぼすのである。そこで言った。

「せっかく戦後一番早く始めたのに、あとから来たのにしてやられるのでは残念じゃないか、もっと頑張りなさいよ」といっても、「いや毎日こう売れ残りが出ては仕方がない」という。

 そこでちょっと考えていった。

「オヤジさん、おれが豆腐を売るのを手伝ってやろうか」

 豆腐屋はおどろいて、

「アンタ豆腐屋やったことあるのかい?」

「いや、やったことはないが、そんなもの売るのは大したことないよ!」

 すると、オヤジは機嫌が悪くなって、

「この商売はそんなに甘くないよ、売れるものなら売ってごらん」

「じゃオヤジさん、明日家を出るときに何でもよいから、時計をもって出ておいで、ただしラジオの時報で正確に合わせておかなきゃダメだぜ」

 オヤジは何のことかわからないが、おぼれる者はワラをもつかむという気になった。

「ところで、リヤカーを引いて回るのはどの町あたりかね」

 そこで私はその日のうちに町会へ行って、豆腐屋の回る町の地図を借りてきて30枚ほど複写した。

 翌朝、豆腐屋が来たので、この地図を渡してこう指示した。「きょうからリヤカーを引っ張って歩いたら、この地図の上に経路を書きなさい。そして豆腐が売れたら時計を見る。そしてその時間と場所を地図に書き込むこと」 オヤジは何かわかったような気もしたが、とにかくこれをやればもっと売れるらしいということで、毎日その地図に書き込んでは届けるようになった。

 半月もしないうちに見当がついた。そこで一枚の地図をオヤジに渡していった。

「この地図の通りに回れ!地図にはリヤカーを引いて回る経路が克明に記入されていて、しかも時間が指定してある。○時○分、○○出発、××に到着したら、豆腐の笛を吹いて三分間停止していること」

 つまりバスの運行表である。

 オヤジは半信半疑でその通り回ったら、予定の半分もあるかないうちにぜんぶ売れて品切れになった。さあ喜んで、翌日は五割増し仕込んできたらこれも売り切れ、とうとう四日目にはこれまでの二倍半まで売れるようになった。

 これですっかり調子づいた豆腐屋は俄然ファイトを燃やすようになり、頑張ったおかげで商売はどんどん大きくなり、それから十年たたないうちに小さな工場を建て、いまでは食品会社の社長に納まっている。


 これが成功した原因のタネ明かしは、もう見当がつかれたであろう。東京の中央線の沿線は典型的なサラリーマン地帯である。サラリーマンの朝の時間はきわめて正確である。

 その証拠がある。中央線の電車は一分おきくらいに十数両編成の列車が来るくらいに混んでいる。ところが不思議なことに、毎朝同じ電車の同じ車両のところに同じ人が乗っている。ということは、毎朝起きる時間が一分も違わないということである。歯をみがく時間も同じ、奥さんが「豆腐屋サーン」といって飛び出す時間もほとんど同じ、飛び出したところに豆腐屋がいれば、もちろん必ず買う。

 原理はただこれだけのことである。もちろん、記憶力のよい豆腐屋ならどこの奥さんは毎日大体何時ごろ買って、油揚げが好きだといったことは気づくかも知れない。しかし朝の勝負は数分で決まるということは、正確な時計とデータの蓄積によって、はじめて発見できたことであって、経験とかカンだけでみつけることはきわめて困難である。しかし、このやりかたでいくなら、小学生でも、この規則性に気づいたかも知れないのである。


企業の未来は販売力で決まる


四、「販売の神様」が生まれる第一条件とは


 かつては、製造部門においてもそうであったように、販売とか営業とかいわれる部門では、現在でもその道の熟練者とか神様とかいわれる人々がいる。そして、それらの人々の「ヤマカン」による判断が、貴重な存在として、販売の主導権をにぎっている場合が珍しくない。ここで「ヤマカン」とはいったが、それらの判断は、時として神がかり的にさえ思われることもあるとしても、意外によく事態の本質を突いていることが多い。そして好況、不況のいずれの時代においても、よくその成果をあげているということも事実であるということは、よく考えてみる必要がある。


 それについて、筆者がまず第一に考えたのは、名人とか神様はどのようにして生まれたかということである。販売の神様といっても、それは生まれつきのものではない。会社へ入りたては、おそらく他の新入社員と同じように、ヘマもやったであろう。

だがしかし、彼らが今日のように神様になりえたのは、本人の能力が大いに関係していることも間違いないが、やはり長年の経験が筋金を入れたからである。この点、工場における熟練工と同じである。長年の熟練というものは恐ろしいもので、その腕は時として最新の機械を上回ることさえある。しかしそれも、年季を入れたおかげである。ところで熟練ということが可能なためには、重大な前提条件がある。それは同じことが何度も繰り返されることである。つまり、市場についても、工場についても、日々出会う現象がいかに複雑で、つかまえどころのないようにみえても、どこかに共通した繰り返しがあるからこそ、熟練ということが成立するのである。毎日出会う現象がまったくデタラメで、最良の条件が日々異なり、二度と同じことが起きないようでは、熟練者とか名人とかいうものは、存在しないのである。


 優れた販売担当者は、決して相手をそらすことがない。そのため、ひやかしのつもりで店に入ったのがきっかけとなって、つい買わされてしまうというようなことは、日常われわれも経験しているところである。

 とはいっても、これらの名人たちが、これらの繰り返しを常に意識して利用しているとは限らない。おそらくそれは、その人々がいわば皮膚で感じ取っているといったほうがいいであろう。しかしいずれにせよ、次々と市場で出会う現象の間に、なんらかの「繰り返し」があることが、神様が生まれる第一条件であるということは間違いあるまい。


 ところで、一見複雑で、変転きわまりないと思われる現象の中から、共通した繰り返しを発見する科学的手法として与えられたのが統計理論である。統計的方法によれば、いかに小さな差でも、差さえあればそれを検出することが原理的に可能である。

統計!この文字をみただけでもうだめだと考える人があるかも知れない。しかし、これは実はそれほどむずかしいことではない。



企業の未来は販売力できまる


三、「商品企画」を誤解してはいないか


 けれども、それよりもっと以前の基本的な仕事がある。それは何を作るかという商品企画の問題である。


 われわれが作った商品は、もちろん購入していただいた消費者のところで使ったとき、その商品に期待された性能なり能力を、100%実現するものではなくてはならない。ところが、いまでもわが国では必要以上に手をかけた品物を作ることを良心的と考える風習がある。だがしかし、このような商品は工芸作品ではあるかも知れないが、少なくとも工業製品ということはできない。過剰品質の場合には、必ずコストも上がるし、材料も余計に使われる。したがって、これは自然から与えられた資源と人力との浪費であり、それだけ高く買わされるお客はいい面の皮であって、オーバーにいうなら供給者として社会に対する罪悪だと考えている。

 むしろ製造技術の神髄は、使用者が真に必要とするギリギリの線を、できるだけ安く実現するところにある。しかし、そのきわどいレベルを巧みに抑えるにはお客様の要求をどのようにして具体的につかみ、実現するかが問題である。これまでの名人芸には、お客様のためというよりも、むしろ作者とか設計者の創作意欲を満足させるだけのものが多かった。


 ところで、これまでは品物が売れないと販売部門から、売れるものを作れということを設計者に要求する。しかし、何が売れるか、お客様はわれわれの商品について、何を要求しているかを一番よく知っているのは、お客様に最も近いところにいる販売部門であるはずである。ここから出た各種の要請と将来への期待を、具体的な品物にまとめるのが技術部門である。だからお客の考えていることを正確につかむこともしないで、ただ製造や設計に当たり散らしても、できてくるものは、まとはずれを絵にかいたようなものだけである。


 販売部門の仕事としては、まず自社の能力という制限のもとで市場の要求をいかにすれば満たしうるかについて、具体的な要求と着想とを製造部門に示し、できあがった製品を、今度はどのように売り込むか、いかに需要を新しく開拓するか、自社の可能な手段のうちで最良のものを発見し、実施することである。


 企業の消長は、最終的には販売部門の力によってきまる。会社という大食いな生き物を支えるためには、一般庶民からみれば気の遠くなるような巨額の売り上げを確保しなければならない。いかに優秀な技術者も工場設備も、売上げ金額というカロリーによってのみ生存を支えることができるのである。デザインがユニークだとか、宣伝が行きわたっているとかいったことは、考えてみると、市場で競争商品と競り合って打ち勝つ場合に、相手とのハンディキャップをつけるためのひとつの小道具にすぎない。売上げ量を具体的に確保して、収入を上げてくれるのは、やはり販売活動である。



企業の未来は販売力できまる


二、販売力のともなわない技術は経営を危うくする


 世界のレベルからみても最新といわれる製造設備をもち、海外にまで名の知れた技術者を大勢かかえている会社の製品が、それでは市場においても最高の売れ行きを示し、消費者の間での評判も必ずトップクラスにあるかといえば、その限りではないという実例を、いくらでもあげることができる。

 品物が悪ければもちろん困るが、性能的にも、デザイン的にも、また価格にも大差がないのに市場における売れ行きが違い、また購入したお客の評判にも差がついてくるという例は珍しくない。この場合、市場でその商品がどのような地位を占めるかは、販売政策と販売力との問題である。


 優秀な技術は、もちろん優れた商品を供給し、販売を成功させるためのひとつの要素ではあるが、その寄与する程度を一般に考えられているほど過大に評価してはならない。技術の独占は意外と長続きしないのである。

 品物を製造するということは人類がこれまでに発見した科学技術上の法則を組み合わせることである。したがって、同じ材料を使い同じように加工して組み立てるなら、必ず同じ品物ができる。だから、そのような品物ができて成功したとういうことがわかれば、競争社会では必ずそれと同じものを作ることができる。


 むしろ、販売力のともなわない技術は、かえって経営を危うくする。どんなにすばらしい製品も、それが一度発表されたということは、技術的な可能性が証明されたことであり、やがては必ず真似されるということである。だから、もし販売力が弱体なら着想を他人に教えただけのことになって、その製品のウマ味はすべて競争相手がモノにするだろう。そして、この例は実に多いのである。

 ここにわが国でも有数の製薬会社がある。その会社では新製品を他社にさきがけて出すということは滅多にしない。そのかわり他社が発表すると、販売方法、その製品の売れ行き、購買層などを徹底的に調べる。このデータはおそらく発表した当の会社よりもはるかに精しいであろう。そしてよいとなったら、ただちに全力をあげてスタートし、会社の販売力にものをいわせて数カ月のうちに猛然と追い抜き、やがて皆が気がついてみると、トップメーカーとなっていたというやりかたをしている。


 トップを切って出した会社は、よく考えてみると、最初に出したという名声を博することはできるかも知れないが、実益は別の要素できまるということになりかねない。


企業の未来は販売力できまる


一、商品を選ぶのは人間である


「クルマがご入り用になったら、お客様のほうからお電話がかかってまいります」。これは一年間に三百六十五台の自動車を売ったことで有名な、あるセールスマンの言葉である。そのナゾを聞いてみたら、次のようなことだった。

 道路を走っていて、クルマがエンコしていたら、必ずクルマをとめて、みてあげる。上着を脱いでワイシャツ姿になり、平気でクルマの下に潜り込む。たとえ、その場で故障が直らなくても、できるだけのことをしてさしあげる。もちろん、ワイシャツは泥まみれになるかもしれないが、もうこれで〝一発〟だそうである。

 経験した人はご存じだろうが、クルマのエンコほど情けないものはない。押してもダメだし、かついで帰るわけにもいかない。雨でも降っていようものなら、なおさらである。そこで、このようにして面倒をみてもらえば、その名前は自分の心に焼き付いて、離れるものではない。


 もともと、われわれの商品を買うかどうかをきめるのは、人間である。いくら品物が優秀だとか、破格の値段だとかいっても、それだけで消費者の心をつかむことができるというものではない。どこの会社の製品でも、よく考えて作られている。たくさんあるこれらに優れた商品の中から、とくにわれわれの商品を選んでもらえるかどうかは、お客様の心をいかにして、つかむことができるかどうかによってきまる。

 お客様が最も望まれるものを、期待通りに入手できるようにしてさしあげることができたら、これほど商売冥利につきることはない。それは利益がどうとか、商人はウソをつくとかいった話題とは、別の次元のものであって、このような努力が世の中を豊にするのである。


 せっかく大勢の人々が集まり、多額の資金と資材を使って品物を作るのだから、すべてのお客様に満足していただけるようなやりかたを真剣に考えるべきである。その努力が成功したとき、はじめて豊かな社会の実現へ貢献することができたということになる。そして、これを実現することこそが企業の社会的責任である。